第4話 恩人③
幹久は今、自分の身に起こっている現象を頭の中で整理した。
自分がいる場所、それはこの温泉旅館【湯ノ花】の若女将である敷島月陽に案内されて辿り着いた、大きな一室だった。
一室というと語弊があるかもしれないが、ここは建物の中に在って部屋を出入りするための引き戸の向こう側は性別によって区切られていた。
越えられない壁と称される堺目を抜けて、幹久が連れてこられた場所は大浴場の女湯だったのである。
男湯は清掃中ということで仕方なく女湯に連れてこられたわけだが、このような形で人生初の女湯に入ることになるとは思ってもみなかった。
「おにーさん、早くこっち向いておくれやす。背中ばかり洗い流しても、体は綺麗にならへんよ?」
雨水に打たれ、山道を転がり落ち、泥だらけになった道着を脱がされて、裸になった自分の姿の後ろに今、この旅館の若女将が居る。
背中を流してくれている彼女は、身につけている着物の裾と袖を捲くり、極力水を浴びない工夫をしていた。
だが、そんなことは大した問題ではない。
彼女が裸の男の背中を全く警戒心無く洗い流してくれていることに、幹久は激しく戸惑いを感じてならなかったのだ。
「も、もういい! あとは自分でやれるからっ!」
「何言うてはりますの! おにーさんの体、こんなに傷だらけで……足もこんなに腫れてますし」
「いや、いい! もう治った! たった今、完治した!」
完治したはずはないのだが、アドレナリンが出ているのか足の痛みはこの状況に陥ってからほとんど感じてはいなかった。
女性と一緒にお風呂に入るなんて経験、幹久にはほとんど皆無だった。
母親は、幹久と妹の日鞠の二人を産んで間もなく病気で亡くなっている。
その日鞠とも、ここ数年間は一緒にお風呂に入った記憶は無い。
十七歳という青春真っ只中の幹久は現在、体も心も成長期。月陽程の綺麗な女性に背中を流してもらえるなんて、男なら本来喜ぶべき嬉しい事なのだろうが、幹久にとっては恥ずかしくて堪らなかった。
「治ったって、そんなわけあるかいな! まったく、何を言って――」
「とっとと、とにかく! 後は俺一人で洗うから、あんたは出てってくれ!」
「……はぁ~。そこまで言うなら、後は好きにしたらよろしいわ。ただ、このまま浴場で仏様になられるのだけはホンマに困るから、ウチは外で待ってはります。何かあればすぐに駆けつけますんで、呼んでおくれやす」
月陽はため息をつくと、そう言って風呂場を出ていってしまう。
こうして一人残された幹久は、手元にあった桶を掴むと、湯船に浸して掬い上げた湯を使い、体を洗い流し始めた。
「痛っ!」
洗い流した湯が傷口に滲みて、体中を激痛が駆け巡った。
「あー、この痛み……本当に現実なんだなぁ」
生の実感とでもいうべきか、幹久は自分の身に起こっているこの現状が夢ではないことを再確認した。湯船の中に入るのは流石に発狂してしまいそうなので、ある程度の体の汚れを洗い流し終えると、ふらつく足取りで浴場を後にする。
「えらい早く出てきたなぁ~、もう構わんのですか?」
「うわぁっ! あ、あんた……まだ居たのか……」
完全に不意を突かれた月陽の登場に、幹久は腰を抜かして尻餅をついた。
「何かあったら困るから、ウチは外で待ってはる言うたやないか」
月陽は確かにそう言って風呂場を出て行ったのだろう、しかし気が動転していた幹久の耳には全く入っていなかった。
「はいこれ。体拭いたら、着替えはこっちに置いてるのを適当に着てええから」
彼女に差し出されたタオルを目にした事で、幹久は自分が今何も身に纏っていないと我に返る。慌ててタオルを手に取ると、急いで腰に巻きつけた。
裸の幹久を見ても、敷島月陽という女性に変わった様子は無い。
本来月陽くらいの年齢の女性が男の体を見ると嫌悪や羞恥といった年相応の反応を示しそうなものだが、彼女の言動にはそういった印象は見受けられなかった。
「なんなんだ、この人は……」
幹久の深層心理は、その一言に尽きた。
月陽に背を向けるように頼み込み、幹久は濡れた体をタオルで拭う。そして彼女の用意してくれた服を手に取り袖を通した。
旅館を利用する客に用意された旅館着なのだろう、臙脂色に白のラインが入った、厚手の生地。剣道着を着慣れている幹久には、その着心地は悪くなかった。
「うん! ええ感じやなぁ、おにーさん。ほんならご飯の用意できてはるから案内するわ、ウチについてきてや」
「あ、あぁ……。わかった……」
屈託のない笑顔で言われるまま、幹久は月陽と共に大浴場を後にした――。
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