第3話 恩人②
「もしも~し? こんなところで寝てはりますと、風邪引きますぇ~?」
やけに訛りのある声が幹久の耳を打った。
声質からして相手は女、どれくらい眠っていたのか分からないが、陽の差す感覚を体が受けた事から夜は明けているらしい。
重い瞼を開き、その声の主の姿を確認しようとしたが、今の幹久には首を動かすどころか眼球を動かすことすらままならない状態だった。
「あのぉ、もしぃ~……?」
声の主は身を屈め、幹久の顔を覗き込んでくる。お蔭で幹久にも彼女の顔を拝めることができた。
パッチリとした大きな瞳にやや長めの黒い前髪、そしてその髪とは対照的の綺麗な白い顔が一層際立っている女性だった。
ペチペチと、彼女は右手で幹久の左頬を軽く叩いてくる。
しかし何の反応も返さないとみるや、すぐに血相を変えて幹久の着ている袴をひん剥き、心臓の位置に耳を重ねた。
「……はぁ~、よかったわぁ~。心臓、まだ動いてはるみたい」
どうやら幹久の死を疑ったらしい。
心臓が動いていることにホッと胸をなで下ろすと、彼女は直ぐに踵を返しどこへやら走っていってしまった。
「このまま放置、かよ……」
幹久の目には天使に見えた彼女の面影が、一瞬で悪魔に変わる。
だが少しして、幹久の前に再び黒髪の少女は戻ってきた。
しかし戻ってきたのは彼女だけではなく、他に二人程引き連れていた。
「うわっ、なんだコイツ……ほんとに生きてんのかよ?」
「そう思って確認したんやけど、心臓はちゃんと動いてはったよ」
「じゃ、じゃあ早く手当しないとっ!」
「いいじゃんこのまま放っといて。死んでないなら、ただ寝てるだけかもよ」
「そんなわけないじゃないですか! こんなにボロボロで、怪我までされているのに!」
「ったく……んで、若女将はどうすんのコイツ?」
「今は生きてはるにしても……このままここに置いといて死なれでもしたら、さすがに困るわ。変な噂でも流れたまったもんやなし、ひとまず旅館へ連れて行こか」
好き勝手言われている幹久は、たまらずに一言物申してやりたくもなったが、そうできない状況下にある。
無言でその場をやり過ごすことに一抹に悔しさを覚えた。
「唯、このおにーさん背負ってもろうてえぇか?」
「しゃーねぇなぁ。はいはい、わかりましたよっと……」
唯と呼ばれた女は明らかに面倒臭そうだったが、若女将と呼ばれた黒髪の少女の指示に従い、渋々幹久の腕を引いて上半身を担ぎ上げた。
「うわっ、コイツ見た目よりずっと軽いな。身長はアタイとより少し高いけど、衰弱してるってのは本当みたいだな」
幹久の身長は、今年の春に測った時点では百六十七センチメートルを記録している。その自分が唯と呼ばれた女と比較して少し高いならば、彼女の背丈は百六十センチメートル前後だろう。
「あーあー、なんでアタイが朝からこんな目にあわなきゃならないんだか。洗ったばかりの服が泥で汚れて、気持ちのいい朝が台無しだよ」
「まぁまぁ、そう言わんと。ウチと花梨じゃ力無いから、このおにーさんを引きずっていかんとあかんし」
「ひきずっていきゃいいーじゃん」
「そ、そんなことできませんよ!」
謎の少女三人に連れられて、幹久は旅館と呼ばれる場所へ進み始める。そして幹久の眠っていた大木からそう遠くない場所に、一軒の建物があった。
豪奢でもなければ質素でもない。しかし、建てられてから半世紀は経過していそうな佇まいを感じられる大きな建物ではある。
屋根には【湯ノ花】と、達筆な文字で書かれた看板が堂々と飾られていた。
「ふー、到着っと。まぁ、コイツ軽かったから、あんまり疲れはしなかったけど」
「きっと何日も食事を摂ってないんじゃないでしょうか?」
建物へ入ると同時に、幹久は玄関に設置されている腰掛けに放り出された。
「あらよっと」
「ゆっ、唯さん! もう少し手厚くしてくださいっ!」
「いいじゃん、別に。生きてるのか死んでるのか、分かんない状態なんだしさ」
「……さっきから好き勝手……言ってくれやがって……」
死人に鞭打つような行為に堪りかねて、幹久はようやく口を開いた。
ぼんやりとしか認識できなかった周囲の光景が、怒りで打ち震える今の幹久にはハッキリと見ることができる。
幹久の目の前には、自分を見つけてくれた黒髪の少女。
次に幹久を散々手荒く扱ってくれた気の強そうな女。
そして最後に幹久の身を案じてくれた小柄の女の子の三人が居た。
「なんだよ、思ったより元気そうじゃん」
吊り上がった目に、クセの強い茶色の髪。
こっちの女の方の名が唯ということは、幹久にはすぐ理解できた。身長も三人の中では一番高く、自分より年上の印象を抱く。
「よかった、目を覚まされたんですね」
そう口にして「ホッ」と安堵したような笑みを浮かべたのは、頬を赤く染める小柄の女の子。長い黒髪を後ろで束ねた彼女の姿は、唯とは対照的で大人しい印象を抱かせる。
「唯、ほんまおおきに。あとはウチがやっとくから、仕事に戻ってえぇよ。花梨はこの人に食べさせる食事を用意してな。朝の賄い、まだ少し余ってあったやろ?」
「はい、わかりました!」
「あいよ。んじゃ、あとはよろしく若女将」
そして、この若女将と呼ばれた少女。
やや長めの前髪でハッキリとした表情は窺えなかったが、肩まで伸びた綺麗な黒髪に白い肌。そしてなにより彼女の語る京都訛りの言葉と身に纏った着物が、去って行った二人とはまた違った印象を幹久に与えていた。
「おにーさん、体はもう動きはる? すぐお食事の用意しはりますから。それまでその汚れた体、温泉で洗い流してくるとえぇですよ」
「あ……あぁ、それは……どうも……痛っ!」
腰をあげようと足に力を入れた途端、幹久の右足に激痛が走る。バス停で滑って転んだ時にできた捻挫のことを、幹久は今更になって思い出した。
体が大きくよろけてしまったが、咄嗟に若女将に支えられて難を逃れる。
とてもじゃないが、一人ではまだまともに動くこともできそうになかった。
「ちょっとちょっと、おにーさん。ほんまに大丈夫どすか?」
「俺、足を捻っていたんだ……今の今まですっかり忘れてた……」
「ほら、ウチに掴まっておくれやす。浴場の入口までお連れしますから」
助けてくれた手前、遠慮できる状態でもない幹久は、おとなしく彼女の肩に掴まった。
「ウチの名前は、敷島月陽(しきしま・つきひ)。この旅館で若女将として働いてるんよ、どうぞよろしゅうに」
「あ、あぁ……。俺は西園寺幹久、こちらこそ……よろしく……」
敷島月陽と名乗った彼女に支えられながら、幹久は旅館の奥へと入っていくのだった――。
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