第2話 恩人①
七月下旬に差し掛かると梅雨も明けて、空は夏真っ盛りの気候に変わっていた。
額にじんわりとにじみ出てくる汗を拭い、西園寺幹久は今日もひたすら、どこへ続いているとも分からない道を一人往く。
厳格な父親に反発して、家を飛び出したのは今から三日前。
目的地も定めていなければ、手荷物や金銭の類も持ち合わせていない。あるのはこの身一つ、袖付きの長い裾を有した剣道着のみ。
行き当たりばったりも程がある体たらく、それは冷静になった幹久の頭に現状を把握させるには充分過ぎる要因となっていた。
「流石に、腹も限界に減ってきたなぁ……」
空腹も然り。
最後に食事を摂ったのは、家を出たあの日の夕食。幹久はそれを、腹の虫が疼くたびに思い返す。
鳴り止まない腹の虫と、灼熱の太陽。このままではいつしか幻覚まで見えてくるのではないかと、幹久は本気で疑い始めた。
しかしどんなにお腹の虫が騒ぎ立てようと、どんなに熱い太陽に照らされようと、家に帰るという選択肢を選ぶつもりはなかった。
「どうしたものか……」
そんな独り言を呟いている内に、【ようこそ京都へ】と掲げられた豪奢な看板を視界の端に捉えた。
幹久の実家である西園寺家は、滋賀県の草津市に存在している。知らず知らずとはいえ、随分と西へ流れてきたものだと幹久は頭を掻いた。
金は無いが、何か食わねば生きてはいけぬ。武士は食わねど高楊枝と昔は言われていたようだが、所詮は過去の事。見栄と根性では腹は膨れない。
先行き不透明の中、幹久は覚悟を決め京都の地を踏んだ。
しかしその瞬間だった、天より小さな雫が降り注いだのである。
あの晴天はどこへ行ったのやら、今はどんよりとした空模様。
小雨は徐々に強まっていき、雨は無慈悲に幹久の体へと降り注ぐ。雨宿りをしようにも、幹久がいる場所からは雨を防げそうな所は見当たらなかった。
しかしこのままでは、ただでさえ限界に近い体力を全て持っていかれると、残った気力を振り絞り、視界の悪い中、雨をしのげそうな場所を求めてひた走った。
「あそこだっ!」
雨水に濡れてボヤけた視野の片隅に、幹久は屋根付きのバス停を見つけた。もはや足元に意識すら行き届かない、幹久は大きな水溜りをお構い無しに踏みつける。
雨を吸った剣道着は重く、その負荷が体を襲った。
しかし、幹久は走る。そしてついに屋根付きのバス停にたどり着いた。ただ着いたまでは良かったが、勢い余って滑り込んでしまった。
「痛っつぅ~……」
無事に、とは言い難い自分の姿を見て、幹久は笑みを零した。
身につけている剣道着は泥水まみれでビッショビショ、滑って転んだ体は幸いにも外傷は無かったが、右足首を捻ったのか捻挫のような痛みを感じた。
その後はゆっくり立ち上がってバス停のベンチに腰掛けると、屋根の庇を辿って滴り落ちていく雨水を眺めた。
「……雨、止みそうにねぇな……」
どれくらいそのままの状態で過ごしただろうか、幹久にはわからなかった。
途中、何度かやって来たバスの運転手に声をかけられた気もするが、ハッキリとは思い出せない。
幹久には、もう既に肉体と精神の限界が訪れていた。
結局、単身乗り込んだ京都では米粒一つ味わう事が出来ていない。
三日前に食べた夕食、その味を思い出すことで幹久はかろうじて空腹を紛らわす。水分は雨水で賄えていたが、この夏の暑さの前に体へ掛かる負担も緩和できずにいた。
そんな極限状態に陥っているというのに、幹久は家に帰るつもりが微塵も湧かなかった。それほどまでに幹久の意志は固く、考えを改める気はないである。
「は……、はは。あはははは……」
だが幹久は考えを反芻していく内、途端に吹き出してしまった。
自分でも可笑しいと思わずにはいられなかったのだ。こんな状態にまでなっているのに、いつまでたっても意地を張っている自分の愚かさが。
しかしこの意地だけは、絶対に曲げられない。
これは自分と父親の、自分と西園寺家の戦いだと思っていたからだ。
ここで屈して家に帰っても、父親からは再び失敗作だの出来損ないだのと罵られてしまうだけ。そして自分はまた、何一つ変わらないあの忌まわしい古いしきたりに則って生きていくことになる。
果たしてそれは生きていると言えるのか、幹久は疑問でならなかった。
その疑問を解消させる、それこそが幹久をここまで駆り立てる原動力といっても過言ではない。解消させる為にはどうすればいいのかなんてわからなかったが、このまま西園寺家にいても、その答えは見つからないと確信が持てた。
だから幹久は、家を出ることにした。
決して楽な選択肢ではないと思っていたが、まだ十七歳の幹久にとって自分ひとりで生きていくなんて早すぎる選択だった。
今まで家訓に従い、剣道一筋で生きてきた幹久には、社会と呼ばれる世界の仕組みを理解するには幼すぎた。
だが、たとえこんな稚拙な行動を周りに笑われようと、小馬鹿にされようと、幹久は後悔しない。途切れそうな意識の中、幹久の心に宿った灯は輝きを失っていなかった。
そんな状態がどれくらい続いたのかわからないが、空はすっかり夜になっていた。降り注いでいた雨がいつのまにか止んでいた事に気が付くと、幹久は重たい体を引き摺りながらバス停を後にする。
頭では何も考えておらず、足だけが西園寺家から逃げるように動く。高く成長した木々の間から、満月による微かな月明かりが幹久の足元を照らしていた。
「今日は、ここで休むか……」
山道の途中、幹久は腰を下ろせそうな丁度いい木陰を見つけた……気がした。
そう、気がしただけだった。
幹久の見つけたという場所には何もなく、ただの獣道でしかなかった。
暗い山道、しかも雨が降った後。過度の疲労と不安定な精神状態が重なり、幹久は足を滑らせた。
傾斜が急だったこともあり、幹久の体はコロコロと転がり落ちていく。そして一本の大木の根元に差し掛かったところで停止した。
転がっている途中、岩や木に接触しなかったのは奇跡に近かった。
「俺……、生きている……のか……?」
転がり落ちたショックで脳が覚醒したのか、幹久の意識はハッキリとしていた。
しかし口の中を侵入してきた泥水に不快感を覚え、慌てて吐き出す。
「ゲホ、ゴホッ……。くそ……めちゃくちゃ痛ぇ……」
全身を打撲とも思えるような節々の痛みが体を襲い、寝返りを打つのも一苦労だった。
自分は、このままここで死を迎えるのだろうか。
幹久の頭に、そんな考えが過ぎった。
「死んでたまるか……、俺はまだ……絶対に死ねない!」
グッと歯を食いしばり、幹久は大木に爪を立ててしがみつく。
上半身を引きずり起こし、大木を背にしてもたれかけた。
しかし幹久の意識は、ついに途絶えてしまった――。
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