湯ノ花温泉奮刀記

播磨竜之介

第1話 プロローグ


「この、失敗作めがっ!」



 激しく怒鳴りつけると同時に、男は手に握っていた竹刀を床に叩きつけた。



「お前のような出来損ないがワタシの息子だと思うと、憤りを感じてならぬわっ!」



 自分の息子、確かにそうだ。

 西園寺幹久(さいおんじ・みきひさ)は今、目の前にいる実の父親から酷い罵倒を浴びせられていた。


 全国の高校生が競う剣道の大会、その試合で幹久は負けた。ただそれだけの理由で、幹久は父親からこのような扱いを受けている。


 幹久の大会成績は準優勝。


 剣道を嗜む者という括りの中ではあるが、これは日本に数多いる高校生の上から二番目に強いことを意味していた。だがその結果に、幹久の父は納得がいかなかったのである。



「判定で優勝を逃したが、あの試合は引き分けも同然だろ。何が不満なんだよ!」


「引き分けは負けと同じだと言っているだろう、愚か者!」



 恫喝とも取れる父の言葉に反論するも、気圧されてしまい幹久は口篭る。高校三年生を迎えた幹久にとって、この大会は自身の高校生活で最後の試合でもあった。


 人一倍練習を重ね、鍛錬に費やす毎日。

 その結果が全国大会準優勝、自分でも誇らしい成績に思えた。


 しかしそれではダメだった。


 西園寺家は代々、剣術を生業として確固たる地位を築き上げてきた家系。

 その歴史は古く、遡れば戦国の時代にまで及んでいると幹久は聞かされていた。

 それを証明するかの如く、剣道の世界に精通している者であれば、西園寺の名を聞くと目の色を変えるほどの影響力すらある程だ。



「一度ならず二度まで、どうやらお前に少しでも期待したワタシが愚かだったな」



 二度。


 そう、幹久はこれで高校生で二度の敗北を喫してしまったことになる。

 昨年の全国大会で一敗、今回の全国大会で一敗。

 相手は、昨年敗北した同じ相手だった。幹久にとっては昨年の借りを返す試合となったわけだが勝つに至らず、惜しくも軍配は向こうに上がってしまう。



「同じ双子で、こうも差が出たか。やはり日鞠はワタシの最高傑作だ、貴様とは大違いのなっ!」



 その一言を耳にした途端、幹久の心臓は「ドクンッ」と跳ねる。そして同時に差別とも取れる比較対象を父が持ち出してきたことに、怒りが込み上げてきた。


 幹久には妹がいる、それも自分と同じ歳で同じ顔の妹だ。


 西園寺日鞠(さいおんじ・ひまり)――、幹久は彼女の双子の兄としてこの世に生を授かった。


 時期を同じくして、幹久と日鞠は剣の道に進み鍛錬を重ねた。

 しかし成長していくにつれ、幹久と日鞠の実力に僅かながらの差が開き始める。


 そしてその差は、今や歴然なものへと変わってしまった。


 日鞠は今や全国大会で優勝を果たすどころか、日本で由緒ある剣術道場の猛者たちを男女関係なく討ち取るレベルまで達していた。

 実力差は、重圧という名の見えない魔物となって幹久に襲いかかっているのだ。


 同年代から大人まで、誰も彼女から一本を取るに至らない。

 日鞠はその実力が、名実ともに西園寺家と自身の名前を世界に轟かせる。

 けっして弱いわけではない幹久の戦歴も、活躍する彼女の姿が取り上げられてしまっては【劣る】という評価が妥当なのである。



「少しでも西園寺家の男として真っ当に生きていくつもりなら、ここで己の犯した過ちを悔い改めていろっ!」



 荒々しい口調で言い放つと、父は部屋を出て行く。

 すると父の後ろ姿を目で追った先で、幹久は襖の影に身を潜めていた少女と目が合った。


 音を立てず、ただ静かにこちらを見つめる彼女の名は西園寺日鞠。自分と同じ顔をした、自分に持っていない全てを持っている妹だ。


 勿論、髪形や服装まで一緒という訳ではないが、長い前髪の中から覗く瞳にあてられて幹久は息を呑んだ。



「……日鞠、聞いていたのかよ?」


「……………(こくり)」



 日鞠は襖で半分隠れた姿を現すと、首を縦に振って返事をした。


 いつからそこに――そう訊こうとする衝動を抑え、幹久は日鞠の目を見つめた。

 月明かりに照らされて浮き上がった彼女の瞳は虚ろで、表情に翳がある。その顔からは、喜怒哀楽といった感情を何一つ感じ取ることができなかった。


 双子は感じ方や考え方が似ているといわれるが、ハッキリ言ってその信憑性は疑わしい。兄妹とは言え、幹久は日鞠の事を理解できない節が多々あった。


 元々口数の多い方ではない彼女だが、感情を表に出したところなんて十歳を超えた頃から見た記憶が無い。

 試合で勝っても、父親に褒められても、彼女の表情に色は無かった。



「俺は、お前の兄貴失格か?」


「……………」


「俺は、西園寺家の失敗作なのか?」


「……………」


「なぁ、なんとか言ってくれよっ!」



 幹久が何を言っても、日鞠から言葉が返ってくることは無かった。


 それからしばしの沈黙が部屋を包み込んでいたが、先に動いたのは幹久だった。

 ゆっくりと立ち上がり、日鞠の方へと歩き始める。

 そして丁度日鞠の傍を横切った時、幹久は日鞠に袖を掴まれた。



「何処、行くの?」


「やっと開いた口から出た言葉がそれかよ」


「父さんは兄さんに、ここで反省するように言ってた……」



 淡白にそう言った日鞠の顔からは、やはり何も感じ取れない。だからというわけではないが、幹久は少し挑発気味な口調で答えてやった。



「西園寺家の男として真っ当に生きていくつもりなら、ってのが抜けているぞ」


「兄さん……それって、どういう……」


「俺はもうこの家から出ていく、あんな父親の言いなりになるのなんて御免だ。何が風習だ、何が家督だ! もう、うんざりなんだよっ!」



 口調を荒げ、幹久は先程まで抱えていた胸中を妹にぶちまけた。



「……本気で言っているの?」


「あぁ、もう俺は西園寺家の男として生きていくつもりはない。親父にそう伝えろ!」



 父親への反発、それが幹久の出した答えだった。


 幹久はキッパリと言い切ると、日鞠に掴まれた袖を力強く振り払い部屋から駆け出した。血の滲む努力をして積み重ねてきた鍛錬の結果が、このような結末を迎えた。それに対し、父親からは何の労いの言葉も無い。

 

 幹久は、心のどこかで期待していたのだ。



『よく頑張った、さすがワタシの息子だ』



 と言って頭を撫でてくれることを。


 その一言さえあれば、幹久はこんな決断はするつもりはなかった。

 西園寺家の為、そして父親の為、自分は全力で責務をまっとうした。できることは全部やったし、持ちうるすべて駆使して最大限尽くしたのだ。



 それなのに……、悪いのは全て父親だ、自分ではない!



 父に対して募りに募った恨みが、幹久の脳裏を駆け巡る。

 気が付けば、幹久は家の玄関を抜け外へと飛び出していた――。


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