近付きたい!
定刻通りに登校し、一時間目の授業を受けていたらブレザーの中でスマートフォンが振動した。
そろりそろりと机の下に出して画面を確認すると、昨日友達登録したばかりのカナデの名前が浮かんでいる。
「今日の放課後、駅前のカラオケに来れる?」
吹き出しに書かれたメッセージを眺め、自分のスケジュールを思い返す。と言っても、わたしが把握している予定は何も無い。部活もしていないし、習い事も塾も行っていない、友達だって全然居ない。そんなわたしに放課後の予定があるわけなかった。
了解とだけ打ち込んで、そのままメッセージを送信する。絵文字でも付ければ良かっただろうか?と少し後悔していると、カナデからすぐに返信が送られてきた。
「あとでまた連絡する」
カナデから送られてくる文面も、黒黒としてるしシンプルだしまあいいか、と思い直してわたしは画面を閉じた。
デコレーションされた文面は苦手だ。相手から飾られた文章が送られてくると、こちらも素っ気なくならないように気を配らねばいけない。そういった配慮が、わたしは本当に苦手だった。思ってもいないような社交辞令を言ったりするのも、人間関係を円滑に進める上では必要不可欠だ。そういった面倒ごとを考えると、疲れてしまう。
伸び切った退屈な時間はいつも通り過ぎ去って、六時間目が終わる間際に再度スマートフォンが振動した。カナデだろうと思い、画面を確認する。
メッセージには、駅前にあるカラオケ店の名前と部屋番号のみが記載されていた。カナデはもう部屋に行っているのだろうか。本当にサボり魔だな……と思っていると、タイミング良く終業のベルが鳴った。
各々部活に向かうクラスメイトたちに手を振って、わたしは一人バス停へと向かう。これはいつも通りのルーティンだ。ただ、今日はカナデとの約束がある。それだけで、心が若干浮足立っているような気がしていた。騒々しいバスの車内で、自分の鼓動が大きく身体に伝わってくる。
バスを降り、指定された店へ向かうと、受付の年配の男性がにこやかに笑った。友達が先に来ている旨を伝えると、その男性は「ああ、カナデちゃんの友達ね!」と言いながら、丁寧に部屋の場所を教えてくれた。
カラオケ店の店員にも名前を知られているだなんて……さては相当な常連だな?烏龍茶で満たしたコップを持ちながら、カナデがいる部屋の前に到着する。
中からは、少し曇ったトランペットの音が聴こえていた。なるほど、カラオケ店で練習してもいいのか……。
カナデに会ったら、まず何て声をかけよう。おはよう?いや、こんにちは?それとも、昨日はありがとう?掌がじんわりと湿り気を帯び、結局答えは見つからないままドアノブをひねる。扉を開けた瞬間、金色の爆音が刃のように突き刺さった。
「ああ、ミナ!お疲れ!」
こちらに気付いたカナデが楽器から唇を離し、爽やかに笑った。ぼたついたパーカーとすらりとしたスキニージーンズを着こなすカナデは、やはり丸一日学校をサボっていたらしい。ほのかに暗い部屋の中、消音されたテレビだけがちかちかと点滅している。
「カラオケで楽器って吹けるんだね……知らなかった」
「店にもよるけど、ここは練習オッケーだからよく来るんだ。部屋もちゃんと防音仕様だしね」
カナデが手の甲で軽く壁を叩くと、確かに壁は分厚そうだった。なるほど、これは確かにいい練習場所なのかもしれない。
カナデは部屋の中にわたしを招き入れ、奥のソファーに腰掛けた。周りには色々な鞄やファイルが乱雑に並べられている。わたしは邪魔にならないよう、隅のソファーに身を落ち着かせた。烏龍茶を一口口に含み、乾いた口を潤わせる。
「それよりさ、今日はミナにこれを渡したくて」
カナデはわたしに身を近づけ、じゃーんと荷物を見せびらかす。プラスチック製の、カナデのものとは種類が違う楽器ケースだった。開けてみるよう促され、金具を外すと金色のトランペットが眠っていた。
「これは、私が中学の頃まで使っていた楽器。今は全然使ってないから、私の代わりに使ってあげてよ」
「えっ……いいの?」
「自分のがないと練習できないでしょ?それに、この子も誰かが吹いてくれたほうが喜ぶからさ」
ケースの中から楽器を出し、まじまじと見つめてみる。金色の塗装が、ピカピカと電灯の光を反射させている。お古とはいえ、メッキの剥げも殆どなく、カナデの手入れの良さが伺えた。
ケースに付属したマウスピースを抜き取り、楽器に付けてみる。昨日と同じように吹いてみると、死にかけのうめき声のような掠れた音が響き渡った。
「昨日吹いた楽器よりは、本体もマウスピースも初心者用で吹きやすいはずだから。きっとすぐ身につくよ。じゃあまずは音出しの練習からかな!」
カナデはわたしの隣にみっちりと付き、丁寧に指導を行ってくれた。一時間程度の練習で、わたしはなんとか楽器から一つまともな音が出るようになった。カナデ曰く、この音はドの音らしい。
一時間吹いただけなのに、唇の周りは疲弊していて、鈍い痛みが頬にまとわりついていた。わたしがバテたのを見透かしてか、カナデはここまでにしようかと言って笑った。
「次は別の音を出せるよう練習してみよう。ミナってさ、音符読める人?」
カナデの質問に、少しばかり戸惑う。小学校の頃、親に無理やり行かされていたピアノ教室を思い出した。結局、毎日練習するのが嫌で二年くらいで辞めてしまったけれど、おそらく基本的なものはまだ覚えていると信じたい。
「たぶん……?」
「トランペットの楽譜はト音記号しか使わないから、そこさえ読めれば大体大丈夫だよ。これは運指表ね」
カナデが渡したA4の紙には、各音の下に①〜③までの文字が記載されていた。音によってその丸が黒く塗りつぶされていたり、白いままだったり。何だこれは?と思いながらカナデを窺う。
「数字はピストンの番号だよ。口に近い方から、1番ピストン。白数字はピストンを押さないで、黒数字はピストンを押す。だから、例えばレの音は1番と3番が黒いから、その二つを押せばいいの」
「なるほど……」
ピストン3つの組み合わせで音が変わるのなら、リコーダー等と比べて覚えることが少なそうだ。そのくらいなら、わたしでも覚えられるかも。
唸りながら運指表を見つめていると、突然横からマイクが差し出された。驚いてカナデを見ると、白い歯を覗かせて笑っている。
「じゃ、時間もまだ余ってるしちょっと歌っていく?ミナから選んでいいよ」
「えっ」
咄嗟にマイクを受け取ってしまい狼狽していると、カナデがソファーから立ち上がった。充電されていたデンモクを一台わたしに寄越し、もう一台でテレビを操作する。死んでいたテレビの音が活気を取り戻し、スピーカーから楽しげな音楽が流れ出した。
「そんな、わたしカラオケとかあんまり来なくて……来たとしても、いつもドリンクバー係だし、歌える曲全然なくて……」
カナデから受け取ったマイクをテーブルに戻し、困ってしまったわたしはスカートから覗いた自分の太腿を見つめていた。電灯の灯りを受けて、なんだか不健康そうな色をしている。
「ええ?それじゃつまらなくない?」
つまらない、か。テーブルに置かれたデンモクに映し出されている丸文字が、わたしの心を辟易とさせる。今までも、カラオケに来て歌うよう言われたことは何度かあった。それでも、わたしは歌わなかった。
「……好きな音楽とかそんなにないし、何を歌っていいのか分からない。みんなが知らない曲を歌って、退屈させるのも嫌だし」
ぼそぼそと呟いた本音を、カナデは見逃さなかった。カナデは少し困ったような笑顔を浮かべ、わたしを優しく見つめていた。
「ミナはさ、周りのこと気にし過ぎじゃない?みんなが知らない曲を歌ったとしても、カラオケなんだから別に良いじゃん。少なくとも私はそんなこと気にしないからさ、今は好きなようにしていいんだよ」
カナデは硬いソファーに身体を預け、慣れた手付きで機器を操作する。ピピッという電子音の後、天井に張り付いていたスピーカーから盛大な音楽が流れ出した。テレビには最近流行りの曲のタイトルが、ごてごてと装飾されたフォントで映し出されている。
「私、この曲結構好きなんだよね。ミナは知ってる?」
「えっ、まあ、多少は……」
「よっしゃ、じゃあ一緒に歌おう」
知らないうちにマイクを二本手に持っていたカナデが、一本をこちらに差し出してくる。わたしにそれを押し付けているうちに、前奏が終わった。ほらほらと促され、仕方なくその声に小さく合わせる。わたしが歌っているのを確認したカナデは嬉しそうに微笑み、声のボリュームを上げた。
そのままカナデはわたしが知っている流行りの曲を何曲か入れ、時間が来る頃にはすっかりわたしも歌うことに慣れてしまっていた。なるほど、これは確かに、世間の人達がカラオケに熱中する理由が何となく分かったかもしれない。身体の中に溜まっていたもやもやとした得体のしれない何かが、声に乗って多少発散されたような気がする。
「気持ちよかったでしょ?」
部屋を出るとき、薄暗い部屋の中でカナデはにやりと微笑んだ。まんまと策略にハマってしまった自分が恥ずかしく、わたしは負け惜しみのような声を上げることしか出来なかった。
「ああ、カナデちゃんお疲れ様。ちゃんと練習できた?」
受付に戻ると、先程の年配の男性がカウンターの向こうから親しげに声を投げかけた。カナデは、まあねーと軽く笑いながら伝票を渡す。
「今日はカナデちゃんが友達を連れてきてくれたから、サービスで半額にしとくよ」
「えっ、ほんとに。ありがとー店長」
「あ、ありがとうございます……」
店長、と言われた男性がレジスターを操作すると、規定の金額の半分の値段が表示された。店長権限でこんなことが出来るのかと感心していると、店長が口を開く。
「カナデちゃんが友達連れてくるのなんて久々だね、中学の時はよく来ていたじゃない……何だっけ、あの……」
「ああ、ほのかね」
カナデが即座に返答した。その言葉が、どこか冷たさを帯びているような気がしたのは、きっとわたしの気のせいだ。
「そう、ほのかちゃん。今どうしてるの?」
「さあ、どうなんだろうね。東高で吹部でも入ってるんじゃない……ま、私は私で淡々とやるよ。今はこの子の先生やってるけどね」
ははは、と乾いた声でカナデは笑った。唐突に肩を抱かれ、わたしは恐縮してしまう。
店長はそれ以上何も言及せず、別れ際にまた来てねと言って大量の半額クーポンを渡してくれた。
自動ドアを抜け、街の雑踏の中に飛び込む。辺りはすっかり日が落ちて、連なる居酒屋の看板が暗闇の中に浮かんでいた。
カナデから渡されたトランペットケースが、静かに重力に引っ張られている。無意識的に駅の方面へと向かっていたわたしの脚が、ふと止まった。先頭を歩いていたカナデが突然止まったからだ。
「お腹減らない?ポテト食べに行こうよ。今日からLサイズ、半額なんだよね」
暗闇の中で振り向いたカナデの顔が、ネオンの光の中でぼんやりと揺らいでいる。どこか無理しているように見えるその顔は、わたしがまだ見たことのない顔だった。
「い……行く!学校帰りにファーストフード店に寄り道するの、憧れだったんだ〜」
力こぶを作って力説すると、カナデは何その憧れ、と言って噴き出した。良かった、カナデが笑ってくれたと思い安堵する。
繁華街の中を、二人分のローファーが並んで歩いていく。カナデの顔を横目で盗み見ると、凛とした顔が前を見据えていた。長いまつげに囲まれた瞳が、ゆらゆらと夜の光の中に溶けている。よく見ると鼻筋も通っていて、肌もつるりと綺麗で、もしかしてカナデってめちゃくちゃ美人なんじゃ……と思っていたら、視線に気付いたカナデと視線が交差した。
「どうしたの?」
う、わー。心拍数が一気に跳ね上がり、身体が熱を帯びた。なんでもない、と言って頭を振る。
カナデは違う。他のクラスメイトたちとは、何かが違う。明確に答えられないけれど、カナデにもっと近付いてみたいと思った。こんな感情を他人に対して抱くのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
楽器ケースの持ち手を力強く握る。わたしが頑張って練習すれば、カナデはきっと喜んでくれる。この楽器が、わたしとカナデを繋ぐ唯一のもの。やるしかない。
黄色の看板が近付いてきて、カナデが浮足立った声を上げる。ポテトと一緒にバーガーも食べちゃおうかな、ミナは何が好き?そう問いかける表情に、もう影は残っていなかった。わたしは口角を上げて、その身体に一歩近づく。
少しずつ、近付いていけたらいい。反動で、楽器ケースの金具が夜の街の中で楽しげに揺れた。
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