ねごと
宮内露風
妻の寝言
熟年再婚した50代の妻は毎晩寝言を言う。
寝言自体はよくあることだが、我が妻殿のはちょっと変わっている。
毎日見る夢のレパートリーの豊富さ
寝言の内容も興味深く
何より、寝言に併せてのアクションが面白いのだ。
こんなことがあった。
隣で寝ている私の方を向いて熟睡する妻のイビキが突然止まった。
どうかしたかと心配して顔を覗き込むと、眉を寄せて難しい顔をしている。
そして、イライラしたように両手をバタバタさせこう言った。
「いいですか、虫垂炎はアッペですアッペ、基本的なことはおぼえて来てください。あなたっ、どこの看護学校出身ですかっ。…そう、○○女子学校なの。とにかく、やる気のない人は後ろへ回りなさい!」
翌朝、妻は夢の内容を憶えていなかった。寝言のことを話すと、若いころ看護士をしていたときの記憶に基づくようだった。
この寝言のパターンは最も多く、寝ながら患部を縫ったり、カテーテルやボンベの操作をするアクションは結構頻繁にあるのだ。私に言わせれば、寝ているわりに激しく動きすぎ最初は起きているかと疑ったが、幼少のころ夢遊病と診断されたこともあるようで、自分なりの検証の結果やっぱり寝ていると判断せざるを得なかった。
一方でこんな迷惑パターンもある。
仰向けで眠っていた妻の顔が、真夜中にブンッと隣で寝ている私の方を向いた。
起きたのかと思ったが、しっかり目を閉じている。
そして、明らかに私に向かってこう言った。
「や・か・ら・がいる…。」
やから…やからって私のことか?
戸惑う私に妻はこう言い放つ。
「退治しなきゃ…。」
えっと思う間もなく、疾風のような妻の右ストレートが私の顎をとらえた。
いてっ!
完全に不意をつかれて、一瞬、目の前が暗くなる。
加害者の妻はというと、追撃の気配もなく、いつの間にかうつぶせになってスヤスヤと寝ていた。
若いころ、ヤンキーやってたときあった?
翌朝、ガクガクする顎を擦りながら聞いたが、夢の内容を憶えていないのはもちろん、そんな勇ましい経験などしたことがなかったようだ。
その日以降、寝ている私たちの距離が、主に私の安全が保てる程度に広がったのは言うまでもない。
こんな感じで本当に毎日毎日、面白い妻の寝言、それもアクション付きのものを聞かされ続け、いつしか私にウズウズするようなある欲望が生じていた。
妻の寝言に返事したい。
問いかけに応じてみたい。
いったいどうなる?
あるときは純心な看護学生
あるときは、やからと呼ばれるチンピラ
寝ている妻を相手にした毎夜の舞台
こんな刺激的な非日常体験があるだろうか…。
ネットで調べたが、寝言に反応して寝ている相手とやり取りすることは、絶対やってはならない禁忌である。
スピリチュアル的には、寝ているときは別の世界に行っており、寝言に反応することは現実世界に帰る阻害となること。そのまま帰って来れずに死んでしまうこともあるよと…
科学的には、寝言は浅い眠りであるレム睡眠のとき発するもの
レム睡眠のときは実は脳が活動中、しかも記憶や感情を整理し心身を健康に保つという大事な活動をしている。寝言に反応することは、その活動を邪魔すること
つまり、寝ている脳への負担が激しいというのがその理由だ。
妻の健康を考えれば、自分の安全を確保しつつそっとしておくのが一番だ。
その反面、私の中では禁忌に触れたい、非日常を経験したいという気持ちが毎晩毎晩大きく育っていった。イブが林檎を口にしたのと同じように、人間はどうしてもダメだと言われれば言われるほどやってみたくなる生き物なのだ。
そのチャンスは突然やってきた。
それも今までにない魅力的な設定で…。
「ねぇ、うさぎがいなくなったの…。」
ある晩、妻が私の方を向いてはっきりそう言った。
今まで聞いたことのない可愛い、幼い声
こりゃ幼稚園児か小学生に戻っているのか?
夫婦生活で初めてのこと、非日常感はかなり大きい。
いい歳して、ワクワクが止まらない。
禁忌を犯す瞬間…踏み出すか、えーい、ふみだせっ!
「そうなの、うさぎがいなくなったの…。」
我ながらベタなおうむ返し
妻は目を閉じたまま、不安そうにコクりとうなずいた。
反応に応えたっ!寝ている人間とやり取りできた!
科学的発見の快感というやつが背中を走る。
気持ちいいー
「あのね、学校にうさぎのご飯を持ってきたのにいないの…。」
どうやら、年齢は思ったとおりだな。
私も年齢を合わすか…。
「大丈夫、お兄さんも一緒に探してあげるよ。」
妻の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、おじちゃん!」
お兄さんだと言ったろうが………まぁいいか。
「ご飯って…人参か何か?」
妻がふるふる顔を動かす。
「ううん…うさぎが食べる草を摘んできたの。」
「草を食べるんだね。」
「うんっ。」
「草なら何でも食べるの?」
「ううんっ…食べる草は決まってるの。」
どうみても50過ぎの夫婦の会話じゃないね。
これぞ非日常…。あー面白い、おもしろいぞっ。
「どうやって逃げたんだろう?」
妻の人差し指が天井に向かった。
「あそこ…うさぎ小屋の下に穴が掘ってあったの。」
「自分で掘ったのかな?」
コクコク、妻は小刻みに頭を振った。
「逃げ出したのって一匹?」
コクコク、また頭をふる。
「白いうさぎ?」
今度は横にフルフル
「茶色いの……ほら、白は小屋にいるでしょ。」
そう言われてもなあ
「本当だ…。」
この返しが精一杯、こんなとき自分の想像力の乏しさが恨めしい。
「どこに行ったかなぁ…。」
「そうだね、どこに行ったんだろう。」
寝ている妻の目には大粒の涙が光っている。
なんだか可愛そうになってきたが、どうすれば夢のうさぎは見つけられるんだろう。
「小さなうさぎの足だからさ…そんなに遠くには行けないよ。学校の中に必ずいるって…。」
今のところ、慰めることしかできないな。
なんか、目一杯子供だましな感じのセリフだけど
妻は不安そうに、自分の右手親指をくわえながらコクコクうなずいた。
「校舎の方を探してみようか?」
こりゃ、一時期流行ったテーブルトークRPGだな。めんどくさいので、日本ではヒットしなかったが…。とにかくイマジネーションが大事だ。
「どう…いない?」
だんだん慣れてきた。何でもそうだが、状況がわからないなら分かっている者に頼るしかない。この場合は夢の中にいる妻のみが頼りだ。
「いない…。」
妻はフルフル首をふる。
「床下とか見てみようか…どう、いないかな?」
妻は身体をひねって、一生懸命覗き込むような格好をする。
「いなーい。」
さすがにそろそろ見つかってほしいが、見つかるかどうかも妻次第、いや妻の夢次第なのだ。
校舎にいないとなると、あと学校にあるのは、運動場、体育館、プールといったところか。この中でプールだけはやめておこう。うさぎが溺れて悪夢に終わったら困る。テーブルトークRPGよろしく、妻の夢のゲームマスターの気分の私は次に体育館に行こうと提案した。
「おじちゃん、いないよ。」
いないか…そろそろ見つかってくれや。最初は楽しんでいた私も、あまりに見つからないのでだんだんイライラしてきた。ハッピーエンドで終わろうや…。夢なんだからさ。
ええーい、次は運動場だっ。
「でもさ、運動場はさっき通ってきたけどいなかったよ。」
そうですか。すみません、…何せこちとら何ひとつ見えてないもんですから。じゃあさ、バッドエンディングは怖いけど、プールしか残ってないじゃんか。
「おじちゃん、あたしもう疲れちゃった。」
ええーっ…まあ、子供だからしょうがないか。
「おんぶでもしようか?」
「ううん、あたしここで寝るねっ。」
おいおい、こんなお外で…って言うか。実際は家の中だけど…現実で寝ることに何の問題もないけど。夢の中で寝た場合、どうなるんだろう?
「もうちょっと頑張ろうか、おじちゃんが家までおんぶして連れて帰るから。」
妻はフルフル首を振った。
「大丈夫、ここで少し寝たら家に帰るから…。」
寝かしてはいけない、漠然とした不安が襲ってきた。
「頑張ろう、ほら、おんぶするから…。」
「おじちゃん、おやすみーっ!」
人の言うことなんか聞いちゃいない。我が妻という人は起きていても寝ていても…本当に自由なんだから。
すうすう寝息を立てる妻は安らかな顔
心配は杞憂かもしれない。
そう思ったとたんに、すごい眠気がやってきて私は意識を失った。
翌朝、すっきりと目が覚めた。
妻はあどけない寝顔ですうすう眠っている。
髪をそっと撫でる。
心配するようなことは何も起きなかったな…。
この寝顔が何よりの証拠だ。
お腹でも空いたのか、愛犬のプードルが妻のお腹に飛び乗ってペロペロ顔をなめる。
「えへへ、うふふ…。」
妻がくすぐったそうな声をあげる。
目が覚めたか…良かった。
「おはよう…。」
妻に声をかけた。やや怪訝な顔
目覚めが悪かったのかな…。
それでも、目をこすりながらおはようと言った。
しつこく顔をなめまくる犬をどかして、ゆっくり起き上がり、いつものようにトイレに向かった。そのあとで洗面所に行くのが彼女の日常だ。
私も起き上がり、ルーチンどおりコーヒーを入れようと、電気ポットに水を入れスイッチを押した。
ソファーに腰をおろし、ニュースをチェックするためテレビをつけた。いつものニュース番組、好みの女子アナが政治関連の記事を説明している。
普段と変わりない日常。
突然、洗面所から響いてきた悲鳴がニュースの音をかき消した。
「どうしたの?」
ソファーに腰掛けたまま洗面所に声をかけた。
妻はびしょびしょの顔で洗面所から走り出てこう言った。
「おじちゃん!あたし、おばちゃんになっちゃった!」
ねごと 宮内露風 @shunsei51
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