31 罠

 思ってもいない賭けの対象に、ダーヴィットは目を丸くした。


「エステルを……賭けろだと?」


「正確には、エステルに抱えさせているラクストレームの負債の権利。その全ての譲渡がこちらの要求だ」


 ダーヴィットは後ろに控えるエステルに目を移すときっと睨んだ。


 エステルは近侍でありながら、いずれダーヴィットの子を生む母体である。そんな女が他の男に色目を使ったと思い、瞬間的に頭が沸騰したのだろう。裏切られたと感じたからではない。女の身で自分に楯突くような真似、それが許せなかったのだ。


 次の瞬間には、手が出るんじゃないかという剣幕。実際、ここで一度手を上げるらしい。


「つまりエステルには、美人巨乳メイドとして、『御主人様』と呼んで仕えてもらう」


「……は?」


 だから、燃え盛るような怒りに、冷水のような言葉を投げかけた。


「聞こえなかったか? エステルが俺の物になった暁には、甲斐甲斐しくご奉仕してもらうと言ったんだ」


「……なぜそんなことをエステルにさせたがる?」


「女を選ぶのに、外見の良し悪し以外の理由が必要か?」


 一歩引き下がりながら、ダーヴィットは喉を唸らせた。


 エステルはエステルで、目をパチパチさせながら、今日までの間見せたことのない表情を見せた。最低な男を見るそれだ。


「そもそも俺がなぜ借金のチャラではなく、権利の譲渡を要求したと思う? それを振りかざしてエッチなことをするために決まってるだろ!」


「煌宮蒼一……貴様には、人としての、なんだ……あれはないのか?」


「借金を盾にとって、望まぬ子を生ませようとしている一族よりは、よっぽど人道的だと思うが?」


「くっ……エステル!」


 ダーヴィットの怒声にエステルが肩をびくんと震わせる。


 仮にも名家である。非人道的とも取れるエステルの扱いは、表に出してきたつもりはない。エステルもそんな不名誉なことを、自ら吹聴しないよう努めてきた。ただし、蒼一にはポロっと漏らしてしまったのだ。


「ダーヴィット、今日の椅子の臭いはどうだった?」


「貴様……!?」


 エステルに振り向いたと思ったら、力強くその顔は戻ってきた。しかし憤りで真っ赤になっていたはずのそれは、見る見る血の気が引いていく。


 ダーヴィットには思いを寄せた女がいたが、過去にこっぴどく振られたらしい。


 未練たらしく恋情を残しているダーヴィットは、移動教室などで誰もいなくなった隙に、直前までその女が座っていた椅子の匂いを嗅ぐ、という性癖がある。


 本編では語れることのない、死に設定とのことだ。


 誰も知らないはずのダーヴィットの性癖を匂わせることで、エステルへの不信を、底知れない情報収集力を持つ蒼一への慄きにすり替えたのだ。


 にまにまと口の端を吊り上げる様に、ダーヴィットは肩を震わせている。


「エステルが抱えるラクストレーム家への負債。おまえがその債務権を当主から引き継いでいることは調べがついている。なら、エステルの身柄はおまえの一存でどうにでもできるよな?


 さあ、誓約を交わして賭けてもらおうか。俺が勝ったら、エステルへの権利を全て譲渡してもらうぞ」


「くっ、そ……煌宮……っ!」


 忌々しげにダーヴィットは顔を歪ませる。


 ダーヴィットにとってエステルとは、幼くから父親に与えられた便利な道具にすぎない。その優秀さゆえに、母体としての価値を認めてはいるが、人間性までを認めているわけではない。意固地となって固執するものではないのだ。


 けれど仮にも価値ある物だ。それを蒼一に取られるような真似はしたくない。そんな葛藤がダーヴィットの中にはうずまいでいる。


 ああ、そういう意味では既に、ダーヴィットは煌宮蒼一に勝てないという未来を、自分の中に思い描いていたのだろう。


 本来のシナリオに沿えば、さっさと言質を取り、誓約を交わすのは容易い。けれどそのシナリオに沿うと、三度ほど、エステルが不当な暴力に晒されるとのこと。


 渡辺はそれをよしとしなかった。エステルの身を慮りながら、どうやれば暴力に晒されることなく、エステルの身請けができるか。


 そうして辿り着いたのが、今のやり取りである。


 煌宮蒼一が変態として、エステルの身柄を要求する。エステルはあくまで目を付けられた、という図式に当てはめれば、その害は彼女に向かない。


 そこに誰にも知られてはならないダーヴィットの性癖を匂わせれば、蒼一の底知れぬ恐怖に身を震わせるはずだ。


 戦いの行方は、始まる前に決まっている。


 ダーヴィットの葛藤は、場の膠着状態をもたらした。


 冷静になられてはならない。人身売買になるような真似はできないと、良心を持つ人間ぶられても困る。


「無駄よ、蒼一」


 だから、そんなときのための布石は打ってある。


「この男がそんな賭けをするわけがないわ」


「リリエンタール……っ!」


 自らと比べ才に恵まれている、ライバル家跡継ぎの登場である。


「次代の当主候補といっても、ユーリアと比べれば凡才以下もいいところ。その劣等感を慰めるのに、性別を持ち出してようやく自尊心を保っているような男よ。見下している相手に自身の持ち物を手放さなければならないような賭け、乗るわけないじゃない。


 見ていなさい蒼一。今に耳障りの良い言い訳を吐き出しながら、貴方の前から逃げ出すわよ」


 さあ続きをどうぞ、と場にはその平手が差し出された。ダーヴィットに向かって、鈴木は蔑むような微笑を浮かべる。


 憎しみで人を殺せれば、とダーヴィットの顔には描かれていた。的確適切な指摘は、恥辱を与えるには十分すぎる。それが今まで歯牙にもかけられなかった、一方的にライバル視している相手からのアプローチなのだ。


「いいだろう! エステルを賭けようじゃないか!」


 頭に血が上り、目の前のことしか見えなくなるのは当然であった。


 勢いづいて拳でテーブルを叩くさまは、あまりにもみっともなすぎる。


「だがそこまで言うのなら、煌宮蒼一! 貴様にも賭けてもらうぞ!」


 人の身を賭けるのだから、自分の身を賭けろ。今にもそう言い出さん剣幕だ。


「いいわ」


 いいだろう、と口にしようとしたら、横合いから鈴木が口を挟んだ。


「もし煌宮蒼一チームが負けたなら、学園の敷地内では、チーム全員が負け犬らしい生活を送ってあげるわ」


「負け犬らしい、生活?」


「ええ。四足歩行で人語を介さずわんわん言ってあげる。もちろん、犬に服なんていらないわ。なんなら、ラクストレームの名を入れて、首輪も一緒に付けましょうか?」


 すらすらとこちらの負けたときの代償を鈴木はあげつらう。


 蒼一の味方するクリスのそんな有様を想像したのか、ダーヴィットは満足気に鼻を鳴らした。台覧戦の特性上、万が一の勝利もありえる。蒼一だけではなくクリスにもその屈辱を与えられるならと、エステルの身と吊り合ったようだ。


「その条件でいいだろう」


 ダーヴィットはこちらの思惑通り、まんまと頷いた。


 煌宮蒼一の奴隷雇用を餌にするはずだったのだが、急遽変更があったのか、打ち合わせとは違う賭けとなった。そこは臨機応変。どうせ勝てばいいのだ。


「ならばその誓約を交わす際の折衝役は、俺が務めさせてもらおう」


「り、リーゼンフェルト……」


 唐突に後ろからぬっと現れたカノンという存在に、ダーヴィットは狼狽えた。


 カノンは同じ男の跡取りでありながら、向けられる嘱望は天地の開きがある。ダーヴィットのコンプレックスを刺激するのに、十分すぎる逸材であった。


「貴様も実感したであろう? ただの落ちこぼれと侮るには、煌宮蒼一は底知れなすぎる。いざ誓約を交わす際、賢しい小細工の一つや二つ、お手のものだろう。そんな真似をされ、貴様も泣きを見たくはあるまい」


「……そんな相手と、最近仲良くやっているようではないか。そんな男を信じろと?」


「リーゼンフェルト家にも事情がある。贔屓はせんが、公明正大に互いが納得いく折衝は約束しよう」


 メガネをクイッとする渡辺。


「それに怒りと勢いに任せた今の貴様が、冷静に誓約を交わせるとも思えんぞ?」


 ダーヴィットは唸り声を出した。


 数瞬ばかし目を瞑ったダーヴィットは、軽く頷いた。


「いいだろう、リーゼンフェルト。今はおまえを信用しよう」


「決まりだな。早速取り決めようか」


 かくして、互いの取り決めが渡辺より迅速に整理されたのである。


 誓約とは、自らが立てた誓いを強制執行する契約魔法だ。誓約は精神に深く根付き、そうしなければならない、と強迫観念に駆られる。逆らおうとする意思すら起きず、その状態は催眠術にかけられたそれに近いだろう。


 一生に渡って、という効力はなくとも、誓約で立てた誓いは数年単位で持続する。賭けの不履行で泣きを見ないためには、必須とも言える契約魔法である。


 誓約を立てるだけなら声に出すだけで十分であるが、これは相互契約として交わすのだ。起こした文面を読み上げるのが当然である。


 かくして、渡辺によって起こされた文面を互いに見比べ、納得の上で誓約は交わされた。


 ダーヴィットは、『自分、ダーヴィット・ラクストレームはもし次の台覧戦で煌宮蒼一率いるチームに敗北するか、その順位が劣った場合、ラクストレーム家が保有するエステル・エルダーリンへの権利を全て、煌宮蒼一に譲渡する。台覧戦が不参加となった場合も同様である』


 俺は『自分、煌宮蒼一はもし台覧戦でダーヴィット・ラクストレーム率いるチームに敗北するか、その順位が劣った場合、学園に立ち入る際は二足歩行、着衣、人語を用いることを禁ずる。チームとなった二人にも最大限の自助努力を持って、それらを遂行させる。台覧戦が不参加となった場合も同様である』


 同時にエステルも誓約を一つ、交わすこととなった。『台覧戦において、ダーヴィット・ラクストレームの指揮下のもと、最大限の自助努力を持って、勝利に貢献する』だ。


 エステルはダーヴィットと比べて、才能の塊である。ダーヴィットと共に、既に台覧戦にエントリーしていた。裏切りが発生しないための措置として、渡辺が提案したのである。


 足元をすくう可能性を一つ潰したことに、ダーヴィットも納得し、渡辺の提案には従った。ひとつ、これで信用を勝ち取ったのだ。


 学園の備品でもある、誓約の水晶。それを両者手を当て、誓約は執行された。


 少し気になることがあったのは、ぼそっとダーヴィットに渡辺がなにか呟いていた。目を見張ったかと思えば、笑いを堪えるような仕草があったことだ。


「さあ、これでもう後戻りできないな、ダーヴィット・ラクストレーム」


「それは貴様のほうだ、煌宮蒼一。貴様の負け犬生活を、今から楽しみにしているぞ」


 哄笑をあげながら、背を向け去っていくダーヴィット。誓約前と比べ、自信が増長しているようだ。


 ダーヴィットを追うように、追従するエステル。


 途中ちらりとこちらを振り返った。


 そんなエステルに向かって、できる限り爽やかに微笑んでみせた。先程のやり取りの中で見せた野卑てなければ下衆でもない、昨日まで声を交わしてきた煌宮蒼一らしい、誠実さを見せるかのように。


 はっと目を見開いたエステルは、次の瞬間には頬を緩めていた。直近の振る舞いの意味もわかったように、ただコクリと一度だけ頷いた。まるで期待していると言わんばかりに、晴れやかな微笑であった。


 フラグは十分に立て、エステルを賭けさせるという一番の難関は乗り越えた。


 後は今日の十五時までに、参加登録をすれば完了だ。いや、放課後を待たずともまだ昼休みは充分に残っている。今からすぐに受付しよう。


 台覧戦は、三人一チーム。鈴木と田中で参加すれば、まず負けることはあるまいと渡辺は語っていた。


 影で様子を伺っていた田中も、ダーヴィットが去ったことで姿を見せた。


 鈴木と田中に一度ずつ視線を向けると、これから言うことがわかったのか顔を綻ばせていた。


「それじゃ――」


「それじゃ、後は頑張りなさい佐藤」


 なんて言いながら、鈴木は両手を鳴らした。


 後は頑張れ。一体なにを頑張れというのか、このときばかりはすぐに意味を受け入れられなかった。


「わたしたちは、渡辺ともう参加している」


「今からメンバーを二人も探すのは大変だと思うが、応援しているぞ」


 田中と渡辺もまた、鈴木と同じ、まるで他人事のようだ。


 そう、他人事だった。


 各々が綻ばせていた面容が、途端に、嘲笑っているように見えたのだ。


「……おい、まさか」


 わなわなと肩が震えた。


「ハメやがったな、このカス共!」


 今度こそ、カス共の顔面は嘲笑うそれに変貌した。

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