21 教えてくれ
「え……」
その言葉の意味を飲み込むのに、かかった時間は十秒ほどか。
茹だるように紅潮していく。頬だけではなく、顔全体、そして耳に至るまで熱を感じた。熱を帯びたのはお酒のせいでないのは、目に見えて明らかだ。
「しょ、しょ……」
言葉が続かない。
女性同士でもそれを口にするのは言いよどむ。それが男であるカノンの前ならば、なおさらだ。
そもそもなぜ、カノンからそのような質問をされなければならないのか。
「なんで……そんなこと……」
声になったのはそこまでだ。先細りするようなこの声は、聞くのですか、という音を鳴らすのに至らなかった。
羞恥から、両の手は衣類を強く握りしめる。
いくら誤解し続けていたとはいえ、カノンよりもたらされる質問だ。自分は彼には逆らえる立場にはない。求められるのならば、例えどれだけ恥ずべきものであろうとも、答えなければならない。
例えそれが、こんな人前あろうとも。
なぜ、こんな辱めを受けなければならないのか。
蒼一の前では猫の皮を被っていただけだったのか。カノンはやはり自分を一人の人間として、認めてくれていなかったのか。人形未満が人の真似をしていると、その胸の中で嘲笑っていたのだろうか。
「ソフィア、君を辱めたいわけではない。真面目な話なんだ」
けれどカノンは、それを否だと告げた。
羞恥に耐えきれず俯けてしまった顔を上げると、カノンからは真剣な面持ちを向けられていた。人を辱め悦に浸る人非人の姿はない。
「俺は前より憂いていた。黒の器が完成にいたるまで、リーゼンフェルト家は君に非人道的な苦しみ……いや、そんな簡素な言葉では片付けられない悲劇をもたらしてきた。なんとかしてやりたかったが……けれど俺にはそれを止める力がなかった。君に手を伸ばしてやることはできなかった俺を許してくれとは言わない。今日まで見て見ぬ振りをしてきたことを、ここに謝らせてくれ」
「カノン様……!」
叫声を押し込むように、口元に両手を当てた。
そこに広がる光景は、生涯忘れることはないだろう。
あの、カノン・リーゼンフェルトが自分に向かって頭を下げている。それもひれ伏して、頭を床につけているのだ。
そんな真似よしてくれと慌てふためくべきである。けど、それができなかった。
こんな様のカノンを見て、胸中に喜びが渦巻いたからではない。自分の境遇にそこまで胸を痛めていたくれたことを知り、目頭が熱くなるほどに胸を打たれたからだ。
頭を上げて欲しい、と言いたいのに言葉が出ない。今口を開いてしまえば泣いてしまい、嗚咽のためにしかこの喉は鳴らせない。
「俺はこの先、全てを表沙汰にするつもりだ。あの非人道さは許されることではない。表沙汰になれば、それに関わってきた者全てに断罪は下されることになろう」
床につけた頭を上げることなく、カノンはとんでもない未来像を口にした。
あの実験に関わった全ての者への断罪。自分にとってそれは、人生への復讐となるほどの、一つの救いである。
ただしそれは、
「そんなことをしたら、リーゼンフェルト家は……」
「その歴史に幕を引くことになるだろうな」
魔導師社会を牽引する一族が、崩壊することとなる。それはこれからカノンが迎えるはずだった輝かしい未来も、消えてなくなることを示唆していた。
「リーゼンフェルト家には力がある。無力だった俺が一人声をあげようと、事実をもみ消すなど容易い。だが黒き黎明を手にした今、社会は俺の声を無視することはできない。ようやくリーゼンフェルトと戦える、君に報いれる土壌ができたんだ」
「なんで……そこまでしてわたしのために……」
「人として正しくあろうとすることに理由なんてない」
リーゼンフェルトは全てがろくでなしだ。
苦しみと辛さだけを与えてきた一族に人間などいない。人間の皮を被った、人を人とも思わぬ怪物だ。
その最たる怪物の血を引いた完成品は、実は人間だった。
今度こそわたしは涙を堪えることはできなかった。
嗚咽を漏れ出るそれではない。ただボロボロと止まらぬ涙が流れ出た。
「だからどうか教えてほしい、ソフィア」
顔を上げたその人は、
「君は処女か」
やはりよくわからないことを言っていた。
怪物たちへの糾弾と、口にするだけで恥ずかしい性的な経験の有無に、一体どんな関係性があるのだろうか。
「それとも非処女なのか?」
カノンはなおも、真面目な顔で自分に問いただす。
「話を端折りすぎよ。それじゃあ答えられるものも、答えづらいじゃない」
ずっと無言を貫いていたクリスティアーネが立ち上がると、自分の横へと腰をおろした。
「貴方の境遇は聞いているわ」
対面するクリスティアーネは、優しくその両手を自分の肩へと置いた。
「試験体とされた者たちが、過去にどのような非人道的なことが行われてきたのか。彼はそれを調べていたの。ええ、時には女としての尊厳が、貶められるような忌々しい行いがあったことも」
「……だから」
ようやく、得心がいった。
あの地獄のような日々の中で、女として尊厳が奪われていないか。それを知ろうとしていたのだと。
「同じ女だもの。無事であれ、そうでないであれ、男の前でそんなことを話さなければいけないその羞恥はよくわかるわ。けれど彼も、そして私たちも知らなければならないの。貴方はリーゼンフェルトが犯した罪の証明。これから戦うのなら、中途半端ではいけないの」
「……私たち、も?」
「ええ。黒き黎明があるとはいえ、後ろ盾なしでは厳しいでしょう? 私たちの家が、彼の後ろ盾になるわ」
口元を緩ませたクリスティアーネは力強く頷いた。
サクラにも目を向けるとそこには暖かな微笑みがあった。
「ひとりの女性としての煩悶があるのはわかる。けれどどうか、教えてくれソフィア」
カノンは再び、その頭を床に付けた。
「君は処女なのか!?」
再三に渡り、カノンはその問いを投げてきた。
自分の過去の性交渉の有無になぜこだわるのか。クリスティアーネに言われてそれはよくわかった。
これほどの方たちを、カノンは自分のために動かしてくれた。自分に報いるためだという、人間の正しい在り方を貫こうとしているのだ。
ならいつまでも、それを口にするのが恥ずかしいだなんて、言っていられない。
ああ、でも、やはり男の人の前で、こんなことを口にするのは恥ずかしい。胸が苦しくなるくらいに、開こうとした口が重くなる。
門口が重いのなら、それを開きやすくする潤滑油が必要だ。
グラスに七割ほど残っているそれを一気に呷って、自分はついにそれを口にした。
「処女……です」
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