20 君は○○なのか?
「クソっ!」
場に差し出した拳を目にしながら、蒼一は荒げた声を出した。
「雑魚」
「雑魚め」
サクラとカノンが差し出しているのは平手。
拳と平手によって決まった覆しようのない勝敗。完膚無きまでの敗北が、ただの一度で決定したのだ。
ジャンケンで負けた蒼一が、買い出しの任を引き受けることになった。
自分もついていくと言うと、
「大丈夫だ。ひとっ走り、すぐに行ってくる」
大好きな手を頭にポン、と蒼一は置いてくれた。
そうして自分は残された。
クリスティアーネ、サクラ、そしてカノン。
セレスティアで生まれた魔法学園に通う者ならば、入学前から誰もが知りうる名家の嫡子たち。それらが一同に集う、この家に残されたのだ。
リーゼンフェルト家より用済みとなった自分にとって、全員が雲の上の方たち。
特にカノンは負の意味で特別である。彼の意思一つで解放されたこの身は、再びリーゼンフェルト家へと繋がれるかもしれない。
やっと、一人の
だからカノンにだけは近づきたくなかった。
幼き頃からソフィア・プラネルトを見るその目は、道具以上人形未満。一人の人間として、その目を向けてくれたことはない。黒の器の試験体として、成果を生み出すモノが歩いているだけ。
それが
なら、その目に入らないことが、この身を守る一番の方法になろう。
ある日、蒼一は朝から不機嫌そうだった。自分の顔を見るとすぐに頬を緩めて、頭や頬を撫で、手を握ったりしてくれた。教室の注目を集めてしまうのはとても恥ずかしいけど、蒼一から触って貰えるのはとても嬉しい。
そうして昼休み、そして五時間目の休み時間もまた、蒼一は苛立たしげに帰ってきた。呪文のように「カス」と連呼しながら、自分に気づくとすぐに沢山触れてくれる。
そういう意味では、自分の心の平穏は、ここまで穏やかなものだった。
翌々日、昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間に、蒼一は駆け出した。
どうしたのだろう、と思う暇もない。蒼一が扉を開いた瞬間、そこにはサクラがいた。蒼一が迷うことなく前の出入り口に目を向けると、いつからそこにいたのか、チャイムが鳴り響く中クリスティアーネが微笑んでいた。
酷い形相で蒼一はこちらに振り返ると、その顔をぎょっとさせた。自分を見たからではない。更にその後ろに、いつの間にかカノンがいたからだ。知らぬ内に開いた窓を見るに、彼がそこから入ってきたのは明白である。
あれほど近づきたくなかったカノンの存在。それが突然背後から現れ恐ろしかった。
慄く自分を、しかしカノンは一度も目に映すことはない。
彼は旧友に向けるような爽やかな微笑みを蒼一に向けている。
そして次の瞬間、自分の胸は鋭く貫かれる痛みが走った。
サクラが蒼一の腕に抱きついたのだ。それだけではない、あのクリスティアーネもまた、蒼一の腕にその身を絡めたのだ。
彼女たちは、それこそ隠す必要がないとばかりに、その顔に恋の色を浮かべていた。
身を捩らせる蒼一の肩に、カノンは手を置き、そのまま食堂に連れて行った。
蒼一が取られた。
泣きたくなるほどの哀情が、胸中に深く突き刺さる。お昼はなにも喉を通ることはなかった。
それが救われたのは、昼休みの終わり頃。
苦虫を噛み潰した表情で蒼一が帰ってきてからだ。
この手を取ると蒼一は自らの頬に当てて
「あのカス共、どうやって始末してやろうか」
と言っていた。
蒼一から出るとは思えぬ言葉であったが、少なくともあれは面白いことではなかった。それだけでこの胸の哀情は消え失せた。
それが今日まで計三度、同じ光景は繰り返される。
蒼一を連れて行かれるのは哀しいけれども、帰ってきた蒼一はそれこそ恋人のように触れ合ってくれる。それがとても嬉しいので、心底複雑であった。
クリスティアーネとサクラのような女の子が、蒼一に近づいてきて、自分の心は穏やかではない。
自分のことを、蒼一はどう思ってくれているのか。
もし、特別だと思ってくれているのなら、すぐにでも全てを蒼一に捧げてもいい。……違う、自分が捧げたいだけだ。
蒼一は寮を出て一人暮らしを始める。
彼の気持ちを知りたい。でも、自分から想いを告げることはできない。
怖い。もし蒼一の特別ではなかったら、この距離から遠くなってしまうことが。
だから自分は、蒼一のもとを訪ねた。
男の人の家で、二人きりとなるその意味もわかっている。
自分から上げてくれなんて言えないから、一人では食べきれない差し入れを用意する。これを見てそのまま、また明日、なんて蒼一が言わないのを知っている、ずるくて卑怯な小細工だ。
上がっていかないか、と言ってもらうために、浅ましい真似をする。
帰してもらえないくらいのことが起きればいいと、期待していたのだ。
「宗教勧誘か? だったらこう言ってやれ。この世界の神は俺たちを選んだとな」
だから蒼一の後ろにカノンが現れたのは、そんな浅ましい自分への罰かと思ったのだ。
カノンの視界に、ついに入ってしまった。
血の気が引いた。
身体が震えた。
「なら、いつまでも玄関口に立たせたままでいるな、このカスが。早く上がってもらえ」
なのに憤懣の情は、自分ではなく蒼一へと向いた。あっさりとカノンは扉の向こう側に消えていき、狐につままれた気持ちとなった。
意地の悪いことを言うクリスティアーネにも、自分のためにカノンは憤る。
顔に向かってお酒を噴き出してしまっても、カノンは慮るように道化を演じた。
今日まで抱いていたカノン像は、一体なんであったのかと、そう思ってしまう。
今日まで振り回すように蒼一に纏わりつき、始まったこの共同生活も、そういうことであり全ては蒼一のためだったとカノンは教えてくれた。
憎まれ役だと。
今日までカノンのことを、自分は誤解し続けてきたのだと知ったのだ。
蒼一が買い出しに出て、自分はこの家に取り残された。
けれど初めに抱いていた恐怖はもうなかった。
「野郎、ぶっ殺してやる!」
蒼一が物騒な言葉を使い、サクラを押し倒し、その後頭部を床に強打させた一面があった。皆が抱腹した手を離さず、剣呑な雰囲気になることはない。
ただ、ケーキに乗っていたさくらんぼを、サクラが蒼一の口に入れ「貴方の一生」と言っただけで、なぜ憤ったのかはわからなかった。
それと、
「リョナに目覚めそうになるな」
「だろう?」
サクラが痛みに苦しみ悶えている様を見て、蒼一の言葉にカノンは頷いた。リョナとは一体どういう意味だろうか。
どういう意味だろうと言えば、なぜか皆、互いを佐藤、鈴木、田中、渡辺と呼び合っていることについて、
「蒼き叡智にはカス共に相応しい代名詞が残されていたんだ」
「黒き黎明がカスと書いて佐藤と呼べと告げたんだ」
それでも引っ越しのお祝いで騒がれているその様は、そこにいるだけで楽しかった。
蒼一と二人きりとなれなかったのは残念だったけれど。それでも自分は、カノンを恐れなくてもいい。それだけで救われた気持ちになった。
当たり前のように皆が、お酒を酌み交わしている。
果たして大丈夫なのだろうか、と思わないこともなかったが、既に自分の中にそんな疑問はない。
身体に回ったアルコールが、ふらふらとした多幸感をもたらす代わりに、思考を制限する。余計なことを考えられる余裕がなく、ただ目の前に映るものしか考えられない。
「そうだソフィア」
カノンは思い出したように、不意に口にする。
「君は処女なのか?」
カノンからおよそ出るは思えない、とんでもない質問が放たれた。
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