22 かくしてシュレディンガーの膜は開いた
お酒の力を借りて、性交渉が今までにないことを告げた。
胸中に広がる羞恥心に耐えられず、ますます茹だっているだろう顔を俯ける。
男性との経験があると見られるのは嫌であるけれど、経験がないことをこの表現で口にするのはとても恥ずかしい。
「そうか……ソフィアは処女だったか」
カノンがホッとするように、そして深刻そうに言った。自分の身を案じる彼に悪気はないのだろうけれど、名前と繋げてそれを口にするのは止めてもらいたい。
ちらりと、カノンを伺った。
頭を上げている彼と目が合う。
「ソフィア。もう一つ、教えてもらってもいいか?」
「は、はい」
「処女膜はあるのか?」
「はひぃ!?」
真剣な面持ちで、カノンはまたとんでもない質問を投げてきた。
「道具で尊厳を奪われている可能性もある。俺は正しく、それを知らねばならん」
そして彼はまた、その額を床に擦りつけた。
「教えてくれ、ソフィア! 君に処女膜はあるのか!?」
カノンの鬼気迫る土下座に圧倒される。
カノンは自分が答えるまで、いつまでも床に頭を付けたままでいるだろう。自分のために真摯に向き合おうとしている彼に、そんな真似をいつまでさせるのは心苦しい。
羞恥に染まり固まる自分に、サクラが空のグラスに並々お酒を注いで差し出してきた。再びそれを一気に呷ると、自分は蚊の鳴くような声を絞り出す。
「処女……膜は……あります」
スカートの裾を握りしめ、羞恥に塗れた顔を隠すように俯いた。
カノンが今、どんな顔をしているかはわからない。
ただしまだなにかを確認したいのか、
「なら……!」
「性的なことは、なにもありませんでした……!」
恥ずかしい言葉をこれ以上口にしなくてもいいよう、重ねるように自分は声を張り上げた。
ぐわんぐわんと、世界が揺れる。
焼けるように熱い頭がふらふらとする。
二度続けて一息に飲んだお酒が、一気に回り回ったのだ。
これ以上なにも考えられない。
眠気とはまた別ななにかが身体を襲う。
不確かに揺れる身体は、気づけばクリスティアーネにその全てを預けていた。
意識が離れるその寸前、
「そうか、アニメ版だったか」
そんなカノンの声が耳に届いた。
買い出しから帰宅すると、円卓を囲う者が一人減っていた。
ソファに目を向けると、ソフィアが横になっている。慣れない物を飲んだ限界が来たのだろう。蒸気させた頬は色っぽく、寝息と共に微かに動いた唇は、ソーイチと紡いだようにも見える。
「あら、お帰りなさい佐藤」
出迎える鈴木は、右手を差し出してくる。握手をしてほしいのではない。要望の品を求めているのだ。
「ソフィアは寝ちゃったのか」
「一気飲みしてこの通りよ」
柑橘系のチューハイを手渡すと、なんともなさげに鈴木は言った。
田中特製は度数が高い。あんなのを一気飲みをしようものなら、ソフィアがこうなったのも頷ける。
「一気飲み? ソフィアが? またなんで?」
頷けるが、なぜそんな真似をしたのか。
アルコールがもたらしたソフィアの変調は、時折甘えるように手を重ねてきたことくらいだ。一貫してちびちび舐める程度だったのが、急に一気飲みするとは思えない。
だからといってこの三人が一気飲みを強要したとは、微塵も考えていない。その辺りの節度を持っていることは信用している。
「己を奮い立たせるため」
田中はそう口にしたが、全く意味がわからない。
首を傾げながら冷蔵庫に買い出しした品を入れていると、
「シュレディンガーの箱は開いた」
何気ない口ぶりで言う田中に、引きちぎれんばかりに首が旋回した。
シュレディンガーの箱を開けたその意味は、つまるところ、ソフィアの新品中古問題に決着がついたということだ。
「まさか聞き出したのか?」
「俺にかかれば造作もない」
渡辺がメガネをクイっと得意げに上げる。
「一体どうやって?」
「誠意を見せて聞き出したまでだ」
「誠意……?」
「君は処女なのか、処女膜はあるのかって土下座してた」
爽やかな好青年の微笑みを浮かべる渡辺に、田中は人差し指を突きつける。
「最高に気持ちの良い土下座だった」
「そんなおまえは最高に気持ち悪いな。親が見たら泣くぞ」
「中身を知りたくないというなら、初めからそう言え」
「知りたいです」
迷うことなくその場で頭を下げた。渡辺に向かってひれ伏して、この額を床が接地する。鈴木辺りからドン引きの音が上がっていたが、無視だ無視。
頭を上げると仕方ないなと口角を上げる渡辺だったが、すぐにその目は逸らされた。それはどこか、哀しい過去を追憶したかのような、そんな哀情の色を宿していた。
「このソフィアは……成人版仕様だった」
メガネをクイッとしながら、渡辺は惜しむように言った。
つまりソフィアは、
「……シュレディンガーの膜は、開いていたのか」
「だからそのパワーワードは止めろ」
渡辺は眉をひそめ呆れたようにツッコんだ。
残念なことだ。コンシューマ板ならまだ救いはあったものの、ソフィアは女の尊厳を奪われていたのだ。
ソフィアに近づくと、その頭を軽く撫でる。
本当に、ソフィアは可愛い女の子だ。見た目だけの話ではない。その中身こそが魅力的だった。
アニメでは強い印象を残すキャラではなかった。だがこの短い間に触れ合うことで、ソフィア・プラネルトという少女がどれほど愛情深く、献身的で、思いやりがあるかこの身に染みた。
辛い過去など感じさせず、身に起きた悲劇で同情を誘うような真似もしない。蒼一の前では精一杯、どこにでもいるような一人の女の子として振る舞っていた。
見惚れるように寝入った顔を眺めていると、ふいに唇が動いた。
「ソー……イチ」
彼女は夢の中でも、煌宮蒼一を思い続けている。
お役御免となるも、凄惨な過去を変えられない。思い出すだけでも泣き出したくなるような記憶を抱えながらも、蒼一との未来へ希望を見出している。
「ずっと、辛い思いをしてきたんだな……」
健気で優しい少女、ソフィア。
「ごめんな、ソフィア……」
俺は今、胸の底から泉の如く湧き出る慙愧の念に駆られていた。
「キープだ」
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