第4話



「ネクロー、ご飯できたわよー」


 母親の声でネクロは目を覚ました。電気を付けなかったので部屋が薄暗い。差し込んでいた西陽はもうなくなり、部屋はもう冷え切っていた。


 だいぶ長い間寝てしまったようだ。


 まだ視界がぼやけている。ネクロはうとうとしながら、ベッドから起き上がった。顔に手を触れると、布地の折れ目が頬に跡を刻んでいた。


 母親に呼ばれたことを思い出し、ネクロはふらふらと立ち上がった。ドアを開けて部屋を出る。廊下にも明かりはなく、薄暗かった。


 顔を洗いたい。突き当たりにあるシンクの方に向かって、ネクロは無意識に歩いていた。


 壁を手で伝いながら、ようやく廊下の終わりにたどり着いた時、ネクロの心臓は飛び上がった。


「うわ!!!」


 思わず声が出た。そこには男が立っていた。痩せた白い顔が闇に浮かび上がり、こちらを見つめている。渇いたふたつの目に絡め取られ、ネクロは体の震えが止まらなかった。


 声が告げた。


(君は誰にも愛されない。誰にも優しくされない。いつも笑われ、誰からも尊敬されない)


「そ、そんなことはない……」


 ネクロは不意をつかれ、必死に否定した。


「お前は誰だ! どうしてそんなことがわかる?」


 男の声がネクロを嘲った。


(なぜか分からない? 答えはここにある。君の前に立っている僕の顔を見てみるがいい)


 言葉の意味がわからず、じっと相手を見つめる。やがてネクロの顔がひきつった。


 ネクロの前にいる男、それはネクロ本人だった。手洗い場に備え付けられた鏡の中に映る顔は、己のそのもの。ネクロが見た中でもっとも暗く、冷たく、生気のない顔をしていた。自分の顔を見ているのに、ネクロの心は芯から凍りついた。


「そうだったのか……僕はこんなにも冷たく、不快な顔をしていたんだ。嘘をついたり、言い訳をしたり、自分に不都合を感じるたびに、他人ひとをこんな表情で見つめていたのか」


(そのとおり。相手から感じ取っていた心の声は、君の表情と同じで、自分で作り出していた負の産物だったんだ。その結果、君はさらに冷たい殻に閉じこもってしまう。無限に落ちていくループさ)


 ネクロは言葉に詰まった。級友たち、惣菜屋の夫婦、飼い犬と主人、そして妹――今日だけでも、僕は人にどれ程の不愉快を与え、勝手に相手を恨んでいたんだろう。


(ほら、またそこで暗くなったら駄目だ。せっかく気づいたんだ。これからが始まりだと思わないと)


 ネクロは手を伸ばし、水道の蛇口を開いた。冷水が勢いよく流れ出す。ネクロはシンクに頭を突っ込んだ。これまで浮かべていた暗い表情をこそげ落とすかのよう、勢いよく顔を洗った。


 ネクロはタオルを手に取り、蛍光灯のスイッチを入れた。いま鏡の中には自分の顔だけが映っていた。あの冷たい表情は微塵もない。自分の中に、恨むべき人などいないのだと、気づいたのだから。


「ネークーロー。ご飯、冷めちゃうわよ」


 これは心の声じゃない。もうあの声は聞こえない。ネクロは踵を返すと、満面の笑みを浮かべて、答えた。


「いま行くよ、母さん」





(ネクロは聞く     おわり)

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ネクロは聞く まきや @t_makiya

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