第8話 家族
授業に遅れるから解放しろと少年が喚いたので、仕方なく上司は彼を手放した。しっしっと手で追い払う仕草があんまりな気がして、彼女の従兄弟に同情する。
「まだ時間には早いけど、店舗の方行こうか。」
「はい。」
上司の紙袋を持ったまま実莉は彼女の後を追い、新店舗となる未だ工事中の建物へ歩いた。外壁工事の職人さんたちと軽く挨拶を交わし、関係者以外立ち入り禁止のステッカーが貼られたドアを開けて中へ入る。
昨日打ち合わせに使っていた椅子とテーブルへ辿り着けば、酒井は置いてあったリモコンでエアコンのスイッチを入れる。工事のためもあって、埃っぽい屋内を少しでも快適にするためだ。電気も水道もガスも通っているのでインフラに問題はない。
春が近いとはいえまだ朝晩は冷え込むから、エアコンが付くのは有難い。
二人は来ていた薄手のコートを脱いで椅子の背もたれにかける。
「私の実家、こっちなのよね。大学もこっちだったのよ。うちは当時からアレのヤンチャには手を焼いててさ・・・。で、なんで知り合ったの?」
紙袋から出した朝食のサンドイッチを咥えたまま尋ねる酒井は、足を組んで背もたれに重心を預ける。
特に隠すことも無いので、実莉は素直に昨日から今朝にかけての事を全部正直に語った。痴漢冤罪のこと、バイクでホテルまで送ってもらったこと、今朝一緒に
電車に乗ってきたこと。包み隠さず喋った。
サンドイッチの包み紙をくしゃっと折り畳んだ上司は、コーヒーで口の中のものを飲み込む。
「・・・なるほどね。まあ、あいつなら有り得る話だわ。私の父親と、佳蓮の父親が兄弟でね。家も近所だったんで、ガキ・・・いや、子供のころから付き合いがあって。よくお守りさせられたのよ。」
従兄弟と再会してから、なんだか上司の口調が段々あやしくなっている気がする。東京にいる時には、こんなくだけた感じではなかった気がするし、間違っても”ガキ”とか言う様なタイプじゃなかったのだ。
それから、コホン、とわざとらしく咳ばらいをして見せる。
「ちゃんと釘をさしておくわ。人妻にちょっかい出すんじゃないって。」
「いやいや、そんなんじゃないですよ。彼から見たら私なんておばさんですもの。有り得ないでしょう。」
「何言ってるの。長勢さんはまだ24、25だっけ?大した年齢差じゃないわよ。そんなこと言ったら、貴方とご主人の方がよっぽど年齢差あるでしょ。」
「はあ、まあ・・・主人はもう34ですから。でも、彼は再婚ですし。」
「そう言う問題じゃないわよね。・・・とにかく、言っておくわ。」
「はあ」
釘を刺されたら、もう彼はさすがに自分の前に現れないだろう。
それが当然だし、これから会う事も無いだろうと、そう思っていた。
ほんの少しだけ寂しい気がするのは、少年が自分に優しかったからだろう。
頭を切り替えて、仕事の話をするべくハンドバッグから電子手帳を取り出す。
上司が朝食のゴミをひとまとめにしてビニール袋に入れている間に、昨日取り決めたことをおさらいしていた。
「お子さん、大丈夫そう?」
口紅を塗り直している彼女が尋ねる。ずけずけと実莉のプライベートについて尋ねてくるのは、実莉が就職する面接で自分の事情を話したからだ。だから、酒井は実莉の事情を大方把握している。
苦笑しつつも、彼女が自分を心配してくれているのはわかる。
「ご主人は連絡取れたの?」
「・・・まだ」
言い難そうにぼそっと答えると、彼女は口紅をしまった。
「こんなこと言うのは失礼かもしれないし、差し出がましいかもしれないけど。ご主人、調べた方がいいわよ。なんか隠してるでしょ。」
言われなくても、実莉自身そう感じていた。
尚寿はもう結婚した当初の彼ではなく、妻である実莉に隠して色々とやらかしている。
「浮気とか、不倫、ってことですかね。」
「多分ね。長勢さんにとってはショックな事だと思うけど。」
「いえ、そう考える方が妥当で自然です。仰る通りなんだと私も思います。証拠はないけど、まあ、間違いないかなって・・・。」
認めたくなかっただけで、そうだろうなと思っていた。
家に戻ってこない理由が仕事だけだとしたら、拘束時間が長すぎる。労組に訴えられるレベルの超々長時間労働だ。ブラックが過ぎるではないか。そういう事を許すような企業ではなかったはずだ。最近では、大手企業ほど労働基準には喧しく言われる傾向がある。
じゃあ遊んでいるのかと言えば、尚寿は余り賭け事は好きではないし、大酒飲みでもないのだ。それは結婚する前に確認したかった点なので、実莉は厳しくチェックしていた。そうやって消去法で行けば、家に寄り付かない原因は女だろう。
何度か自宅にかかってきた不審な電話の件もある。
「・・・私、なんであんな人と結婚しちゃったんでしょうね。」
自嘲気味に薄く笑ってぽつりと呟いた。
「娘ちゃんを放っておけなかったんでしょ?」
確かにそれはある。結婚した理由の半分は董子を放っておけないと思ったからだ。それに、董子が無事に臓器移植を終えれば彼女の治療は一気に楽になる。
うまく行けば健常者とそんなに変わらない生活が出来るようになるかもしれないのだ。それまでの辛抱だと思えば彼女の世話は辛くなかった。尚寿もそう言っていたのだ。移植の費用が貯まり董子が手術に耐えられるようになれれば、実の父親である彼が自分の臓器を移植するつもりだと。そうすれば、普通の家族になれるから、と。
「私は董子の母親になりたかったのかもしれません。」
泣き笑いのような表情を浮かべて、実莉はそう答えた。
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