誰かのために何者にでもなれるわけじゃない

ちわみろく

第1話 満員電車

 この土地に訪れたのは初めての事で、スマホの地図機能を見ながら必死で場所を探しながら歩く。

 仕事で出張など初めての事なので、とても緊張していた。

 新しい支店を出すための、起ち上げ要員として呼ばれた。正直あまり自信はないが、任された仕事である以上は一生懸命やるつもりである。

 それに、仕事に夢中になっている間は、嫌な事を忘れていられる。

 長勢実莉ながせみのりは既婚者だ。短大を卒業してすぐに結婚した。保育士になるため幼児教育を学び、幼稚園教諭の資格も取った。子供が大好きなのだ。実莉の子供のころからの夢は幼稚園の先生だった。

 なのに、今コーヒーチェーン店に勤めているのは、現在の夫と結婚したためである。最初はパートだった。

「えっと、ここは私鉄を乗り継いで行くんだったかな。」

 駅の構内へ足を踏み入れ、切符を買って改札を通る。初めて乗る私鉄に、思わずきょろきょろしてしまった。時間帯のせいか、人が多い。学生服の姿も目立った。東京と変わらないほどの混雑ぶりに、なんだか逆に安心してしまう。

 車両の出入り口近くに立って吊革につかまり降りる駅までじっと待つ。満員電車での過ごし方は、とにかく動かない事だ。流されず、しっかり足を踏ん張る。手に持ったハンドバッグをしっかりと抱え、もう片方の手を絡ませるように吊革へ。

 ざわつく車内ではあったが、聞きなれない方言もなんだか新鮮だ。知らない土地に来たのだな、という異国情緒のようなものを感じた。

 反対側の座席には学生の団体が群れていた。その中に、唯一私服の少年がいて妙に目立つ。小柄だが背筋を伸ばして立つ姿に、どこか惹かれるものを感じた。

 光沢のある赤いスカジャンの袖を捲って両手を吊革に乗せている。口元が動いているのは飴でも舐めているのか。

 短い髪は逆立ち金色に染まっていた。男子にしては妙に色白で、端正な横顔だった。年齢ははまだ二十を超えていないだろう。

「・・・っ!」

 がちりと目が合う。

 驚いたことに、少年の眼は緑色だ。顔立ちはどう見ても日本人だからカラコンでも入れているのだろうか。不審げに、目の合った実莉の方を睨んでいるので、目を逸らした。不躾にじろじろと見つめ過ぎてしまったのだろう。

 思わず顔を上げて電車の中の天井を見る。小さく息をついた。目的の駅はまだだろうかと天井に貼られた路線図を確かめる。ああ、次の駅だと安堵した時に、黄色い悲鳴が上がった。

「きゃあああっ!!痴漢っ!!」

 混雑した車内で誰もが声の方へ視線を投げる。勿論、実莉もそちら見てしまった。

 確かにこれだけ混雑していれば痴漢くらい出てもおかしくないが、大声を出せるとはなかなか勇気のある女の子だ。

 満員電車で痴漢の被害は後を絶たないが、それを告発できるのは氷山の一角だと言われている。実際はほとんどの被害者は泣き寝入りだそうだ。大声を上げるのだって勇気と度胸が必要である。何故なら、被害者は恐怖の余り身が竦む。大概は少しでも身体をずらしたり動かしたりして痴漢から逃げるぐらいがせいぜいできることだった。仮に勇気があったとしても、万が一勘違いだったり間違いだったら相手に申し訳ない。下手をすれば告発した相手の一生を滅茶苦茶にしてしまうかもしれないから。

「はあっ!?俺は痴漢なんざしてねぇ!!」

「あんたしかいないじゃない!!警察に突き出してやる!!」

「ふざけんな!」

 騒ぎ出した数人の女子高生に囲まれて追及されているのは、先ほど実莉と目が合ったあの小柄な少年だった。

 車体にブレーキがかかり、駅に到着する。

 出入り口が開いて、人の流れが外へ押し出されて行く。その雪崩のような動きにうまく身を乗せて電車を降りた。無事に目的の駅に辿り着いたことに息をついて安堵すると、先ほどの女子高生たちと少年がホームで揉めている。

 彼らを遠巻きにしている野次馬も少なく、乗客たちたちは流れていった。やがて騒ぎを聞きつけた私鉄の駅員が駆け寄ってくる。 

「ここでは他のご乗車のお客様のご迷惑になりますので、別室でお話を」

 5人の女子高生と少年が、駅員に案内されて動き出した。

 だが、少年は不本意そうに口を尖らせ、何度も

「俺はやってねぇ!」

と口にする。

 まだ若い少年だ。

 そう思っただけで、何故か身体が動いていた。

 あんな若い少年が痴漢の罪を着せられ、不名誉なレッテルを張られてこれから生きなくてはいけなくなるのかと思うと、動かずにはいられなかった。

 だって、彼は自分と目が合った時もずっと両手が吊革にあったのだ。自分の知る限り明らかな冤罪である。

 それに、告発した女子高生たちもなんだか様子がおかしい。

 5人の女子高生は全員同じ制服だし、口々に『触られた』と言っている。5人もの女子を二本しか腕のない彼がどうやって触るのだろう。妙に慣れた風なのも異様だった。

「待って下さい!その人は、何もしてないと思います。」

   


 

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