⑥
店までの帰り道を、私と先生はゆっくりと歩いていた。祭りの後のような静けさに、その残り香のように私が手にした提灯が、ぼんやりと辺りを照らしている。その提灯に『葵屋』と描かれているのは、葵様の執念か、それとも妄念なのか、私には判断が付かない。
それでも提灯は自分の役目をきっちり果たし、私たちは無事、大横川の河川敷まで辿り着いた。もう少し西へ進めば黒船橋に行き着くという途中で、先生は足を止める。
「先生?」
振り向くと先生は、私の頭の向こう、鬱蒼と生い茂る森を見ていた。
「あの森の中に何があるのか、知っていますか? 亀さん」
突然の先生の問いに、私は狼狽えながらも、頭の地図から該当するものを口にした。
「え、ええ、っと、確か、黒船神社と、於三稲荷だったと思います」
急に、どうしたんですか? と視線で問いかけると、先生はいつもより少し、気弱そうな笑みを浮かべていた。
「実はわたしはね、人間じゃないんですよ。亀さん」
これは本当にあった話なんだそうですがね、と先生は語り始めた。
昔、本所に二千石をとる旗本、松岡家のお屋敷があった。そのお屋敷には、ある女性が奉公に出ていた。
彼女の名前は、お古乃(かの)。深川牡丹町に住む漁師の娘で、当時十八歳になる大層な美女だった。
やがてお古乃は殿様のお手がついて、妊娠。多分な手当と一緒に、深川蛤町の実家へ帰されることになる。
お古乃は女の子を出産し、その子は阿三(おさん)と名付けられた。お古乃は松岡の殿様から与えられた手当で実家の裏に離れを建てて、何不自由ない生活をしていた。無論、松岡の殿様もお忍びで見えていたという。
しかし間の悪い事にお古乃が亡くなり、続いて松岡の殿様も亡くなってしまう。阿三は祖父に預けられたが、その頃祖父にはもう一度漁師を勤める体力もなく、当然の結果として生活に困窮した。
そこで阿三の祖父は亀戸の天神橋のそばで団子屋を始め、梅見団子を売り出す。これが思いのほか繁盛し、阿三が十七歳の時には彼女の母親、お古乃の器量を写して団子屋の看板娘となっていた。
ある時、本所割下水に住む阿部 新重郎(あべ しんじゅうろう)と言う阿部家の跡取り息子が、臥龍梅を見た帰りに阿部家の幇間医者に連れられて、阿三が居る団子屋へとやって来た。その離れで新重郎と阿三は引き合わされ、そこで二人は互いに一目惚れ。それから新重郎は毎日のように一人で阿三の元に訪ねて、逢瀬を重ね、阿三と将来を約束する仲になっていた。
だがこの新重郎、実は松岡家から阿部家に入った養子だったのだ。
「え、それじゃあ!」
驚きの声を上げる私に向かって、先生は苦笑いを浮かべていた。
「……そうです。新重郎と阿三は、腹違いの兄妹だったんですよ」
新重郎がその事実を知ったのは、本家の実母、新重郎の母の様態が悪いというので、お見舞いに訪れた時だった。その事実を話した新重郎の母親は、心のわだかまりがなくなったと見えて、そのまま亡くなる。
四十九日を過ぎても、新重郎は実の妹と契りを結ぶ犬畜生と同じ関係になった事を悩んでいた。
悩んだ末に、新重郎は今後は逢わない事を心に誓って、再出発する事にした。しかし、その事を知らない阿三が今度は思い悩む。新重郎が来ないのを気にかけて、ついに阿三は亡くなってしまった。
「そ、そのことを、新重郎は知っていたんですか?」
「ええ。自分と阿三に引きあわせた幇間医者の元を久しぶりに訪ねた際に、阿三が亡くなった事を告げられたんです」
それを聞いた新重郎は、気が滅入ってしまう。これではいけないと思った彼は、閑静な向島に住まいを移して、気持ちを切り替えようとした。
住まいを移した、あるお盆の夜。新重郎が寝られないでいると、深夜庭先を下駄の音を鳴らしながら女性が通って行った。間もなく戻って来ると、窓下で止まる。自分の名を呼ぶ声が聞こえたので覗くと――
「そこにいたのは、朝顔の花柄の浴衣を着た阿三がいたんです」
「で、でも先生! 阿三は死んだはずなんじゃ……」
「ええ、そうです。阿三は、確かに死んでいたんです」
しかし阿三は、新重郎にこう告げる。自分は死んでおらず、祖父母がうるさくて外に出られない。しかし新重郎がここにいるのを聞き、居ても立ってもいられずに、小梅から深夜怖いのも忘れて訪ねて来たという。
その阿三の言葉を、新重郎は信じた。彼らは抱き合って再会を喜び、新重郎は阿三を部屋に通した。そしてお互い生きていた事を幸せに思い、将来を改めて誓い合ったのだ。
そして阿三は、夜ごとに新重郎を訪ねてくるようになった。しかし、阿三は死んでいる。
ある夜、不審に思った新重郎の世話をしていた婆やが彼の部屋を覗いてみると――
「新重郎は、煙のようなものと話していたそうです」
「そ、それで、新重郎はどうなったんですか?」
頬をひく付かせながら、私は先生に話の先を促した。
先生が自分の事を人じゃないと言ったのは、きっとこの怪談噺を盛り上げるための前振りに違いない。
だとすると、今感じている恐怖も先生に煽られているようで、癪だった。
しかしそう考えても背筋を登ってくる悪寒を無視する事が出来ず、私は負け惜しみのようにこう思うしかない。
せ、先生でも、こんな冗談を言うことがあるんですね!
そうだ。冗談だ。そうに決まっている。どう生きればいいのか私に教えてくれている先生が人間じゃないだなんて、そんなわけあるはずがない。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、先生は言葉を紡いでいく。
「婆やはその事を、菩提寺の法恩寺の住職に話しました。そしてその住職は新重郎に御札を貼るように言い聞かせ、彼は言われた通りに窓へそれを貼りました」
そしてその夜から、阿三は現れる事はなくなった。新重郎もその後元気を取り戻して、本所割下水の屋敷に戻ることになる。
屋敷に戻ってから最初の睦月(一月)を迎えた時、麻布の娘と仲人がたって新重郎は祝言を上げた。
「その席に、一匹の蛇が現れました」
現れた蛇は、恨めしそうに二人を見つめていた。新重郎は煙管で蛇を殺したが、殺しても殺しても、蛇は毎晩現れる。
「流石に私でも、これはわかります! その蛇が、阿三なんでしょう?」
「ええ、亀さんの言う通りです。その蛇の事を、新重郎は札をもらった住職に相談しました。住職は蛇が化身した阿三だと伝えると、こう助言します」
次に蛇が出てきたら、私の衣に包んでその上から縄で結んでおくように、と。
新重郎は札の時と同じく今度も住職に言われた通りにして、蛇を捕まえた。捕まえた蛇を住職は東の小高い所の森に埋めて、その上に祠を建てた。
その難を仏力で封じ込め、その森を阿三の森と言う様になった。
「その後、阿三の森はお産の森と言い換えられて、安産の御利益があるとたいそう繁盛し、稲荷となったんです」
「稲荷……」
そうつぶやくと、私は思わずある方向に視線を向ける。そこには、鬱蒼と生い茂る森があった。
先程先生から、何があるのか聞かれた場所だ。そして私は、こう答えた。
黒船神社と、
「於三、稲荷……」
全身に、鳥肌が立った。
無関係だと思っていた。冗談だと思っていた、先生の怪談噺。それが今、私の目の前に存在する森と繋がった。
目の前の現実と、怪談噺が重なりあう。
「その後新重郎の妻が亡くなり、今後は妻をめとらないと彼はつむりを丸めて、この稲荷の側に庵を建てて菩提を弔らったんですよ」
その言葉を聞き、私は慌てて先生の方に振り向いた。その時、強く風が吹いた。
寝ぐせだらけの先生の髪が煽られ、私の髪も乱れる。それに呼応するように、あの森が、森を為す木々たちが、大きくわなないた。
提灯の炎が怪しく揺れ、夜風をいやに冷たく感じる。
「ですがこの話には、一つだけ伝えられていないことがあるんです」
「……伝えられて、いないこと?」
私は粘着くような汗をかきながら、先生に問いかけた。問いかけながらも、私にはそれが何なのか、はっきりと予想出来ていた。
それは――
「それは阿三と新重郎の間に、子供がいた、ということです。死んだ阿三の体から引きずり出されるようにして、その子供は産声を上げました」
死後出産、と言うらしいですけどね、と先生は小さくつぶやいた。
何でこんな話を先生がしているのか、私は痛いほどよくわかっている。
死後出産。そして先生が、自分は人間ではないと言った意味。
やがて先生は、決定的な一言を口にする。
「わたしはね、その人たちの血を引いているんですよ」
だから先生は、自分の事を人間じゃないと言ったのだ。
それは何も、阿三が蛇に化けたと言うだけでなく――
「今話した人たちの、兄妹の間に生まれた、犬畜生と同じ行為をして生まれた子供の血が、わたしに流れているんです」
兄妹の間に生まれた、禁忌の子。
本来なら存在を許されない忌み子。
人として扱われない、人間ではない子供。
それが、自分の事を人間ではないと言った先生の真意だった。
「じゃ、じゃあ、於三稲荷の下にいるのは……」
「ええ。わたしのご先祖様でしょうね」
提灯を持つ私の手が、震えた。震えた灯りは、阿三の森と呼ばれた森に建つ於三稲荷を、闇夜からじわりと浮き上がらせている。
「で、でも、先生? ご先祖様って言っても……」
「……亀さんが考えている通り、そんなに昔の人ではないと思いますよ。恐らくあの下に眠っているのは、わたしの祖母か、曾祖母でしょうね。もっとも、蛇に化けたような相手を人と言っていいのかは、疑問が残りますが」
先生の言葉を聞きながら、私は苦い何かが腹の中側から登ってきそうになるのを、必死になって耐えていた。意地になって耐えていた。
何故ならここには、私と先生しかいない。
先生の話を聞けるのは、私しかいないのだから。
「わたしの身の上話を知っているのは、江戸の中でもある程度の役職に着かれている方だけのようです。本所に旗本を構えていたご子息の不祥事ですし、内容も内容ですからね」
「……だから江戸勤番としてやって来た高木様には、先生のことが伝えられていたのですね」
「そのようですね。そうした噂や、私の父や祖父の話が回り回って、私の遠い親戚が今日、深川蛤町から訪ねてきてくれたんですよ」
先生の言葉に、私ははっとなった。
「それって!」
「はい。亀さんもお会いした、『辰巳芸者』さんですよ。向こうも生まれたんだか生まれていないんだか、存在すら怪しいわたしみたいなのを、よく今まで探し続けてくれたものだと、話を聞いた時は思わず関心してしまいました」
先生の言葉に、私は羞恥心で顔が赤くなる。『辰巳芸者』と先生が私の知らないうちに仲良くなったと、私は誤解していたのだ。
全ては自分の早とちり。『辰巳芸者』というだけで、先生のご親戚の方だったのだ。
「まぁ、わたしとしては、急に親戚と言われても、戸惑ってしまうんですが。それにわたしは、自分の親の顔すら知りませんからね」
「そう、なんですか?」
「わたしの血筋は、生まれるとすぐに養子に出される決まりがあるそうで。血を、ばらけさせたいのでしょうね。私の上の世代にはお目付け役なんかもいたそうですが、もう十分に薄まったと思われたのか、わたしにはそうした人は付けられませんでした。と言っても、物心付いた時には既にわたしは、御師匠の元で天真正伝神道流を習ってましたが」
私の言葉に、先生はそうつぶやいた。
「わたしは天真正伝神道流を収めた後、江戸に戻ってくると、阿部新重郎の残した財産をあてがわれて、あの店を構えました。お金は殆どその時に使い切ってしまって、後は亀さんも知っての通りですよ」
そう言ったっきり、先生は黙った。
私は沈黙に耐え切れなくなり、先生に向かって問いかける。
「……何で、こんな話をしたんですか?」
「亀さんが、気にされているかと思いまして」
その言葉に、今度は私が押し黙る。
重たい沈黙が続く中、その沈黙を今度は私が破らなければならないんだと、強くそう思った。だから唇が震える中、何を話したらいいのか頭の中でまとまっていなくても、私はとにかく口を開く。
「……私の父上は、どうしようもない人で、私と、母上を捨てました」
私の口から溢れだしたのは、既に先生にも話した身の上話だった。
「父上は大工として腕は良かったのですが、お酒が好きで、遊女に入れ込んで、お金は全く家に入れないで、だから母上は本当に苦労していて――」
「でも亀さんのお父さんは、今日から生まれ変わるはずですよ。三百両返すのは簡単ではないでしょうが、必ず返しきるでしょう」
先生の言葉に、私は頷いた。父が新たに借金を交わした相手を考えれば、そうならざるを得ないはずだ。
「それで、亀さんはこの後どうします?」
そう言った先生は、いつものように微笑んでいる。しかし今が夜だからか、はたまた提灯の明かりが足りないのか、その顔には何処か影が差しているように感じた。
「わたしなんかじゃなくて、お父さんと一緒に暮らすことも出来ますよ?」
その言葉に、私は愕然となる。父と一緒に暮らす。そんな選択を先生から突きつけられた事に、私は驚いていた。
父と暮らすことを、想像してみる。いや、その必要はない。それは既に、本のない生活は、畳のある家での生活は、父から一緒に暮らさないかと言われた時に既に想像している。
そして、父は今度こそ更生するだろう。
なら、私はどうするべきか?
「私は……」
今までの生活を、振り返ってみる。
「私は、先生に拾っていただいたおかげで、今まで生きてこれました」
先生に拾われ、ここまで育ててもらった。その恩はある。
「先生には色々、読み書きだけじゃなく、生きていく上で必要なことを、沢山、沢山教えていただきました」
でもその一方で、私は先生に対して酷い押し付けをしていた。
「それなのに私は先生に甘えて、都合のいい所だけ見て、自分の理想を押し付けて」
父の面影を重ね、自分の理想の父親像を、先生に押し付けていた。私は今まで、そんな歪んだ形でしか先生と向き合ってこなかったのだ。
「でも先生は、ちゃんと私を見ていてくれて」
そんな私に、先生はいつも笑顔で私を見ていてくれて。今もこうして私の不安がっている部分を感じ取って、自分の生い立ちも聞かせてくれて。
「私も、先生を見たいです」
先生はちゃんと、私と向き合ってくれていた。
「私も、先生をこれから、真っ直ぐに見ていたいです!」
だから。
「先生とちゃんとこれからは、向き合っていたいです!」
だから、私は――
「だから私は、これからも先生と一緒にいたいです! 私に生き方を教えてくれた、人間の先生と一緒にっ!」
私の叫び声が漆黒の闇の中を駆け抜け、川はさざ波を立て、鬱蒼と茂る森は木々を揺らす。
気付けば私の両目からは涙がとめどもなく流れだし、私の頬に細流を作り、ぽたりぽたりと、着物と地面に零れ落ちていた。
私はそれが無性に恥ずかしくて、赤くなるぐらい、手で顔をこする。照れ隠しだとわかっていても、私は先生に叫ばずにはいられなかった。
「そ、それに! 私がいなくなったら、店はどうするんですか? だらしない先生のことですから、直ぐに借金だらけになっちゃいますよっ!」
「……そうですね。亀さんがいなくなると、わたしも困ってしまいます」
睨む私を見て、先生は相変わらずだらしなくにへらと笑っている。
「亀さん」
「何ですか?」
「ありがとうございます」
先生の笑顔は相変わらずのはずなのに、いつもとは違うように見えて。
私の心臓は、いつもより鼓動を早くした。
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