まず、私を押さえつけていた男が吹き飛んだ。

 自由になり、私が体を起こした所で別の男が地面に背中から叩きつけられる。私が内股をかけた男だった。

「今度はまた、えらく派手にやられたもんですねぇ。亀さん」

 飄々とした様子で、先生は私に向かって笑いかける。私は乱れた着物を直しながら、宙に涙も散らしておく。

 二人の男が起き上がる前に、私は弱気を内に押し込めると、先生の元へ眉を吊り上げて走りながら近づいていった。

「先生は、何処まで知っていますか?」

「九分九厘、と言いたい所ですが、どうですかね?」

 そう言って、先生は私にあるものを差し出した。

 それは木彫で掘った、『亀』の人形。

 もし何か口に出して言えないような問題が起きた場合、店に置いて外出する事になっていたそれを、私は店を出る前に、巾着袋も貸本の荷も含めて、一切合切置いてきたのだ。

 私がそれを受け取ると、先生は珍しく肩をすくめる。

「私が関係ありそうな話を聞けたのは、竹さん家の権助さんと定吉さん、それから宗漢さんに師弟した久蔵さん。後は亀さんのお父さんの借金があると、あちらの方々が先程話していた内容を聞いただけですよ」

「……十分過ぎますよ」

 父と入った『茶屋』にお茶の葉を届けに来た『葉茶屋』の二人組が権助さんと定吉さんであることは、私も気づいていた。

 人形を置いて私が店を出た後、先生は色んな人に私の足取りを聞いていてくれたのだろう。だとすると、鰻屋を出てから同じ道を歩いていた、十徳を羽織った剃髪の男性は先生の仕込みで、久蔵さんが私と父を見張っていたのだと考えられる。

 そこまで仕込みが済んでいるのなら、あの準備も先生は済ませてくれているはずだ。

「……先生、例の物は?」

「ちゃんと持ってきてますよ。向こうの軒下に。お膳立ても整っています」

「わかりました」

 先生から目線で教えてもらった場所に向かいながら、私はどれだけ先生に依存していたのか、甘えていたのかを痛感していた。

 生き方を教えてくれると言った先生に、私は知らず知らずに父の面影を重ね、自分の理想の父親像を押し付けていたのだ。

 だから『辰巳芸者』と親しげにしていたことに嫉妬したし、それが常に罪悪感として自分を内側から責めていた。自分を拾ってくれた恩人に、必要以上のものを求めていたから。

 先生が軒下に隠してくれていた物に私が手を伸ばした時、男たちと先生の会話が耳に届く。

「だ、誰だ、てめぇはっ!」

「邪魔をしようっていうんなら、容赦はしねぇぜっ!」

「そうは言われましても、うちの亀さんがお困りのようだったので」

 私は思わず、先生の方へ振り向いた。先生は切っ先を向ける男たちではなく、私の方を真っ直ぐに見つめている。

 先生はいつものように、だらしのない笑顔を浮かべなら、私に向かって言葉を紡いだ。

「色々と考え過ぎですかね? あれもこれも、ではなく、一つ一つを確実に処理していった方が、失敗も少なくなると思いますよ。料理と一緒ですね」

 その言葉で、私の目は覚め、酔は吹き飛んた。

 私は両手の、掌を頬に強く打ち付ける。

 迷いはなくなり、私が成すべきことを成すため、自分を奮い立たせた。

 さぁ、やろう! 早くしないと、稼ぎ時を逃してしまうっ!

 私は急いでそれを首から下げると、大きく息を吸って、腹の底から声を出した。

 

「さあさお立ち会いお立ち会い! 久しぶりの大捕り物! 投げ銭放り銭大歓迎! 深川『相談屋』の大捕り物だよっ!」

 

 私の声が、朗々と夜空を駆け抜ける。声が駆けた後には、煌々とした提灯の明かりが、暗闇をあっという間に掻き消した。

「何だ!」

「何が起こってるんだっ!」

 金貸したちが狼狽する中、私は普段店で膳代わりに使っている千両箱を担ぎ直す。祭り囃子が聞こえてきそうなほどに、この場は提灯で溢れかえっていた。その提灯を手にしているのは、長屋から現れたうちのお得意様たち。

 うちのお得意様たちとは、もちろん『貸本屋』のお得意様たちだ。

 家々の間からだけでなく、平久川の河川敷、こちら側だけでなく向かい側からも提灯を持つ人々の姿が見える。先生の言っていた通り、お膳立ては全て整っていた。

 先生は飛脚屋を使って、お得意様たちにこの大捕り物の事を、手紙を使ってばら撒いたのだ。

 普段はお金お金とやかましい私だが、この時ばかりは話は別。手紙を出した費用ぐらい、すぐに取り返すことが出来る。

 何せ今は、儲け時。

 さぁ、ここが稼ぎ時だっ!

 私はあらん限りの力を込めて、声を張り上げた。

「さあさお立ち会いお立ち会い! 銭はこちらの千両箱へ! この空箱を真の千両箱へ変えてくれよお立ち会い! 立ち会うのは『相談屋』主人と、六人の刀を持ったお侍! その内一人は、何と天真正伝神道流の使い手だっ!」

 うちの千両箱が賽銭箱のように切れ目が入っているのは、こうした大捕り物の時、見物料を回収するためだ。首から下げれるように、縄も付けている。

 高木様が深川の治安が良いとおっしゃっていたのは、先生がこうした大捕り物を行っているからだ。最近では大きな事件も少なくなっているのだが、以前お会いした葵様にはそれが退屈だったように見受けられた。

 見れば、見覚えのある法仙寺駕籠の姿もある。十中八九、葵様がお乗りになられているのだろう。それを示すように、大捕り物を見に来た人々が手にした提灯の殆どに『葵屋』と文字が記載されている。ちゃっかりここで自分の店を宣伝するのが、葵様らしい。

 ……それはともかく、後で葵様には訪ねたいことがあるのですが。

 私がそう思っていると、男たちが先生に向かって怒鳴り散らした。

「何だかよくわからねぇが、取り敢えずこいつを倒せばいいんだなっ!」

「やっちまえっ!」

「おや? ご同門の方がおられるのですか?」

 男たちがいきり立つ中、先生は私の口上に二度三度と頷いている。その間、着流し姿の男以外、五人の手にした刀が、絶えず振るわれていた。

 しかし――

「さあさお立ち会いお立ち会い! 暖簾に腕押しとはまさにこの事! 五つの兇刃は『相談屋』に掠りもしないっ!」

「くそ! どうなってるんだっ!」

「確かに当たっているはずなのに、切れねぇぞっ!」

 男たちの言葉を示すように、刀が先生の着物を捉えても、先生の皮膚どころか、捉えた着物すら傷つけることがかなわなかった。

 その絡繰は、先生の着物の模様にある。先生が着ている群青色の着物は、物の長さを惑わす縞模様。更に身の丈に合っていない着物を着崩しているので、捉えたと思っても、実際には刀と着物の間には距離がある。その実体を捉えるのは、至難の業だ。

 華麗に刀を躱しながら先生は一人、また一人と、男たちを打ち倒していく。

 それに合わせるように見物客の熱気は増していき、おひねりの数も額も増えていた。私は煽りの口上を述べながら、こちらに向かって投げられるそれらを集めていく。

「さあさお立ち会いお立ち会い! 残りは一人! されど真打ち! 天真正伝神道流の使い手と『相談屋』の一騎打ちだっ!」

「乗せられているようで癪だが、これも仕事。拙者の刀の錆にしてくれようぞっ!」

「おっと、そいつはおっかないですねぇ」

 刀を構える着流し姿の男に、先生は相変わらず笑顔のままだ。

「へらへらしおって! 貴様はここで斬り殺すっ!」

 そんな先生に苛立ったのか、男は威嚇するように吠えた!

「食らえっ! 天真正伝神道流、表之太刀! 六津之太刀っ!」

 吠えた男に、先生が不思議そうに首を傾げて問いかけた。

「はて? 表之太刀に、六津之太刀なんてありませんよ?」

 先生の言葉に、男は動きを止める。その額には、じっとりとした脂汗が浮き出していた。

 そうなのだ。私が先生から習っている天真正伝神道流に、六津之太刀なんてものは、存在していない。

 天真正伝神道流の表之太刀は、五津之太刀、七津之太刀、神集之太刀、八神之太刀の四ヶ条のはず。

 私は存在しない名前に驚き、不覚を取ってしまったのだ。

 私の予定では見物料を回収するのを先生に任せ、金貸したちの相手は私がしようと考えていた。先生には私が問題を抱えていることは知らせていたので、上手く立ち回ってもらえると思っていたし、信じていたのだ。

 しかし、実際には私の力が及ばず、今の現状がある。返す返す、自分の至らなさを私は歯がゆく感じた。

 一方動きを止めていた男は額の汗を強引に拭うと、癇癪を起こしたように喋り出す。

「か、形があろうがなかろうが、お主が拙者の刀の錆になるのは変わりはないのだっ!」

 もはややぶれかぶれになったのか、男はかまわず先生に向かって斬りかかる。私の時とは違い、刃は返していない。

 不覚を取ったとはいえ、私を打ち沈めたその剣を、先生は舞を踊るようにして躱していく。

 男が斬り込んでいるはずなのに、一太刀毎に刀は先生の舞に惑わされ、気付けばその刀の行く末は、先生に導かれるような軌跡を描いている。その流麗な動きに、見物客から感嘆のため息が聞こえてきた。

 刀を振るっている男にも、主導権が先生に握られているのはわかっているのだろう。しかし、先生の動きに釣られ、刀を出す手が止まらない。なまじ実力がある分、動きを止めてしまえばそこで先生の一撃が待っているのだと、理解しているのだ。

 後は、決着を待つばかり。

 男の体力が付きて先生の一撃が入るのか。あるいは先生の体力が尽きるのが先か。

 いや、先生が負けることはあり得ないだろう。

 先生は、強い。

 頭をかち割ってやりたい気分になっても私がそれを実行しないのは、私の実力では先生に攻撃を当てることが出来ないからだ。そもそも私が両手で持たなければならない貸本の荷を先生は片手で持ち上げたりと、男女の差以前に基礎能力が違いすぎる。身の丈に合っていない着物は、鍛え上げられた先生の肉体を隠すのにも、一役買っているのだ。

 あの日、雨の中六人の物取りを屠り、私を救った恩人が負けるはずなどなかった。

 だがここで、着流し姿の男は、最悪の一手に出た。

「あああぁぁぁあああっ!」

 男が奇声を上げながら、先生に向かってではなく、何と見物客に向かって斬りかかろうとしたのだ。自分の不利を悟り、どうにか打開策を探そうとした結果、そうした行動に出たのだろう。

 男が向けた刀の先にいたのは一人の男、いや、女性だ。うちの店を訪れていた、『辰巳芸者』だった。彼女は一瞬怯むが、気丈にも自分に向かってくる男を睨みつける。その姿勢は立派だが、彼女の足は震えていた。

 見物客から悲鳴が上がり、男がその顔に凌辱的な笑みを刻んだ。

 本当にそれは、最悪の一手だった。

 彼は、気が付かなかったのだろうか?

 先生が私を組み伏せていた男たちから助けだした後、私と先生の間には、私が走って駆け寄るだけの距離が離れていたことに。

 それはつまり、先生には距離が離れていても相手を攻撃する方法があるということに他ならない。

「お客さんに手を出すのは、よしてもらえませんか?」

 本当にそれは、男にとって最悪の一手だった。

 深川には、江戸湾へと続く川が多く流れている。つまり江戸湾に出るための、漁師の船が川沿いに止められているのだ。当然、船をつなぐための縄も、あちこちに存在する。

 先生は着物の袖から、縄を取り出した。

「文字通り、お縄に付いていただきましょうかね」

 目を細めた先生の言葉とともに、四本の縄が男に向かって巻き付いてく。普段二膳の箸を操るその左手には今は四本の縄が握られており、それぞれ男の首、両手、左足を絡めとっていた。

 それらをぜんまい仕掛けめいた手の動きで巧みに操り、先生はあっという間に男を縛り上げる。続いて地面に寝転ぶ五人の男たちも、それぞれ先生は縛り上げてみせた。

 全てが終わったことを確認するかのように周りに目配せをした後、先生はその場で見物客に向かって一礼する。そんな先生へ、惜しみない賞賛と拍手が送られた。

 それを見ながら、私はある人物に話しかける。

「お楽しみいただけましたでしょうか? 葵様」

「ええ、とっても楽しかったわ。お亀ちゃん」

 白雪のような肌をした腕が駕籠にかけられたすだれから伸び、私の抱えている千両箱へ、一両小判を気怠げに放り投げた。

「わちきは楽しんだから、そろそろ帰るわ。お仕事もあるしね」

「その前に一つ、お聞きしたいことがあるのですが。よろしいでしょうか?」

「なぁに? お亀ちゃん」

 粘着くような葵様の声に身震いしながら、私はなおも口を開く。

「先生が縛ったあの金貸したちは、吉原には話を通してあると言っておりました」

「……それで?」

「私を三百両で買うと言ったのは、葵様ではありませんか?」

 駕籠の中から、凍てつくような気配を感じる。寒いと感じているのに噴き出す嫌な汗を拭いながら、私は葵様の言葉を待っていた。

「どうして、そう思うのかしら?」

「二十両、五十両なら即決で吉原に売られたという話は聞いたことがあります。ですが、見ず知らずの相手を三百両ですぐに貸し付けるようなことをする酔狂な人が、吉原にいるとは思えません」

「でも、いたからその話が通ったんでしょう?」

「ええ。見ず知らずの相手でないのなら、三百両出す方はおられるかと」

 私の言葉を聞き、葵様が鈴を転がしたように笑った。葵様が転がしている鈴は、きっと私の事なのだろう。

「でも、それだけじゃまだ証拠としては不足じゃないかしら?」

「いえ、それだけで十分です」

 そこで言葉を切り、私は小さく深呼吸をした。そしてその口で、言葉を作る。

「三百両で私が手に入った場合でも、手に入らなかった今の場合でも、どちらになっても葵様はお楽しみになられるでしょう?」

 それを聞いた葵様は私だけに声が聞こえるように押し殺して、それでも火に焼べた竹のように、壮絶に悽絶に艶絶に、笑い声を上げた。

「最後の最後まで楽しませてもらったわ。わちきは大満足だと、だーさまに伝えておいて頂戴な」

「……かしこまりました」

 そう言ってその場を立ち去ろうとした私に向かって、なおも葵様から言葉が投げかけられる。

「最後のついでに、わちきからも一つだけ聞かせて? お亀ちゃん」

 その言葉を聞き終える前に、私は白い、帰幽した人の手かと見間違うほど白い腕に、強引に駕籠へと引き寄せられていた。

 私がそれを認識した瞬間、氷柱のように冷たい何かが、私の鼓膜に突き立てられる。

「だーさまの妻役は、楽しかったかしら?」

 私の言葉をまたずに、駕籠舁が駕籠を担いだ。葵様を乗せた駕籠は、私を置き去りにして吉原へと続く道を進んでいく。その様子を、冷や汗を滝のように流しながら、私はただただ見送っていた。

 その口から認めてはもらえなかったが、あの金貸しを江戸に引き入れたのは、葵様で間違いなさそうだ。何故そうしたのかは、最後の質問に全て集約されているように感じられる。それを含めてきっと、葵様には退屈しのぎという扱いなのだろう。全く、退屈しのぎにとんでもないことをやらかしてくれたものだ。

 私は嘆息した後、おひねりを回収しつつ、先生の元へとやって来た。その脇に転がる金貸したちのそばに、茫然自失となった父の姿も見える。

「……先生」

「亀さん。葵さんは、なんておっしゃってましたか?」

「……大満足だった、と」

 最後に葵様から質問されたことについては、結局先生には言わなかった。葵様の悋気を先生に教えるのは、葵様にとって良くないことなんじゃないかと思えたのだ。何故なら葵様は、それを先生に伝えろとは、言わなかったからだ。

 私が先生の顔色を伺うと、彼は苦笑いを浮かべていた。

「そうですか。あの人も、困った人ですねぇ」

 このやり取りだけで全て理解してしまったかのような先生も、私にしてみればある意味十分困った人なのだが、今は他に困った問題が控えている。

「先生、この後どうしますか?」

 この後というのは、捕らえた金貸しについてだ。父が借金をしていたのは何となく気がついていたが、額が額だけにすぐにどうこう出来るとも思えない。

 私の予想ではもっと少額で、今回の見物料に別の所からお金を工面してどうにかする算段だったのだが、三百両は流石にすぐに払えない。

 不安げに見上げると、先生はいつものように微笑んでいた。

「大丈夫ですよ、亀さん。もう手は打ってます」

「……本当ですか?」

「九分九厘」

 いつもと変わらないその言葉を聞いても、私の中にある不安は一向に解消されない。

 三百両という大金を直ぐに用意できるのなら、店の家計が火の車にならずにすむはずだ。

 一体先生はどうするつもりなのだろう? そう問うように私が見上げると、先生は何かに気がついたように私から視線を外した。

「あ、来ましたね」

 先生が手を振る方を見ると、権助さんと定吉さんに連れられ、高木様と見慣れないお侍様がやって来た。その後ろには、久蔵さんの姿もある。

 やって来た面々に、先生が頭を下げた。

「お初にお目にかかります。ご面倒をおかけして、申し訳ありません。そちら、千代田卜斎様でいらっしゃいますね?」

「話は、義理の息子から聞いておりますよ。『相談屋』さん。例の件では、色々とご面倒をおかけしたそうで」

「とんでもございません」

 そう言って先生は、千代田様に頭を下げる。それを見て高木様が、先生に向かって疑問を投げかけた。

「それで? 『相談屋』。拙者たちに話とは、一体何だ?」

「はい。単刀直入に言わせていただきますが、先日の茶碗の一件で細川越中守より払い下げとなった金子は、いかほど残っておりますでしょうか?」

「せ、先生っ!」

 先生の言葉を聞き、私はひっくり返りそうになる。先生が何を言わんとしているのか、理解してしまったのだ。

 そんな私を置き去りにして、先生は話を進めていく。

「突然の申し出で大変恐縮ではございますが、各々百五十両。お借りいただくこと叶わないでしょうか?」

「何? 百五十両だとっ!」

「それは、困る。あれは娘の支度金。そうおいそれと、貸し出すわけにはいかぬ」

 当然ながら、高木様と千代田様は難色を示した。それはそうだ。私が高木様や千代田様の立場でも、同じことを言うだろう。

 どうするのか? と先生を見れば、先生は私や高木様ではなく、久蔵さんに目配せしていた。

「久蔵さん。お話した件、どうでしたか?」

「旦那さんはお休みになられてましたが、番頭さんと話をすることが出来ました。一人ぐらいなら、働き口を用意してくれると言っています」

「そうですか。ありがとうございます。では、亀さんのお父さん?」

「な、何ですかっ!」

 さっきまで蚊帳の外に置かれていた父が、先生に呼ばれて縮み上がる。先ほどの戦い方を見ていれば、先生に対してそんな反応になってしまうのかもしれない。

「それでは亀さんのお父さんは、今日から大店の、大宮さんの所で働いていただきます。そして宜しければ、高木様と千代田様の御息女の新居を担当させていただければと」

 それを聞いた高木様が先生の言わんとしていることを察して、小さく唸った。

「……なるほど。それで百五十両ずつ先払いということにしてもらいたい、と?」

「しかし、こちらの方にそれほどの腕があるのかどうか……」

 高木様と千代田様が、訝しげに父を一瞥した。

 それを見た先生は、それが当然だと言わんばかりに、父に問いかける。

「やれますよね? 亀さんのお父さん」

「お、おうよ! やってやる! やってやるさ! おいらはうわばみだが、腕だけは鈍ってねぇんでぃ!」

 先生の言葉に、父は力こぶを作って答えた。

 だが高木様は、渋い顔のままだ。

「だが、いきなり百五十両か……」

「もし困ったことがあれば、遠慮なく頼れとおっしゃってくださったではないですか」

「む。それを言われると弱いが……」

 先生のあけすけな物言いに弱り顔になった高木様へ、先生は更に言葉を継ぎ足していく。

「それに、誓約書は細川家家臣として正式なものを結べば、間違いはございませんでしょう」

「……ほう」

 先生の言葉を聞いて、高木様の目が怪しく光る。

「なるほど、なるほどの。考えおったな、『相談屋』。義父上、ここは拙者の顔に免じて――」

「よい。娘を嫁がせる男がそう言うのだ。わしも百五十両出そう」

 なんとも言えない面持ちでそのやり取りを見ていた私を置き去りに、先生は話をまとめていく。

「では、形は亀さんのお父さんに三百両、細川藩から借金をしたということで」

「うむ。良介。屋敷に戻り、三百両用意してまいれ。誓約書を書くので、紙と墨もな!」

 一方、当事者であるにも関わらず蚊帳の外に置かれていた父はというと、何が起こっているのかわからないといった様子で、ただただ事の成り行きをただ呆然と見つめていた。

 そんな父に向かって、先生が笑いかける。

「では、亀さんのお父さん。これからは頑張って、地道に三百両細川藩に返していきましょう。この五両は、再出発するために当ててください」

「は、はい。ありがとうございます! ありがとうございますっ!」

「亀さん。その千両箱、貸してください」

 泣きだした父をなだめた後、先生は私から千両箱を受け取ると、捕らえた金貸したちに話をしに行った。これから三百両を用意することと、見物料の中から六人分の路銀を出して、二度と私たちに関わらないことを約束させ、開放するつもりなのだろう。

 その背中を見送っていると、久蔵さんがぽつりとこうつぶやいた。

「でも、『相談屋』の旦那さん。あの人にあんなに親切にしてもいいのかな?」

「え?」

 久蔵さんのその言葉に、私は思わず反応してしまう。そんな私を見て、久蔵さんは慌てて取り付くように言葉を続けた。

「あ、そうだね。『相談屋』さんにしてみれば、自分のお父さんですもんね。すみません」

 そう言って、久蔵さんは人混みの中へと消えていく。それを見送りながらも、私は自分の思考の中へと沈んでいった。

 久蔵さんは、勘違いをしている。私が久蔵さんの言葉に反応したのは、先生が私の父に親切にした、という部分が引っかかったからだ。

 確かに働く場所と三百両という金子を工面したのは、他でもない先生だ。

 だが金子の捻り出した場所はあの細川藩で、更に正式な誓約書まで父は書かされる事になった。

 商人から見た細川と言えば、一言で言えば貧乏細川。流石に家来からただで物を取り上げるようなことはしないが、大商人たちが今まで何度借金を踏み倒されているのか、少しでも商いをしている人なら知っている。

 そんな細川からお金を借りるという名目の誓約書を、父はこれから書くのだ。例え死ぬような目にあっても父は三百両を回収される事になるだろうし、これから色々と無理難題をふっかけられる事になるだろう。

 とはいえ、その三百両は元々父が借りた金。私まで借金のかたしようとしていたのだし、これに懲りて真面目に江戸で働いてくれるようになることを期待するしかない。

 やがて金貸しへの三百両の返金と、父の新しい誓約書が作成され、先生が大捕り物に一区切りを付けた事を周りに知らせるために一本締めを行い、今回の『相談屋』の仕事は、幕を下ろすことになった。

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