「どうだ? お亀。腹ぁ、いっぱいになったか?」

「……ええ。おかげさまで」

「よせやい、そんな他人行儀に! すぐには無理かもしれねぇが、また昔みたいにおとっつぁんって、そう呼んでくれよ」

「……はい」

 父から夕食に鰻を御馳走になった後、私と父はほろ酔い気分で河川敷を歩いていた。久々に食べた鰻が、自分はここにいるぞとばかりに、私の胃袋を満たしている。満腹による満足感と、初めて飲んだお酒の火照りを、夜風がそっと撫でていく。

 久々に会った父との会話は、思いの外楽しいものとなった。

 父は本当に真面目に働いている事を示すように、羽織った半纏は質のいいものを着ている。食事の最中も、今度番頭さんと木場に木口を見に行くのだと言っていた。

 そんな父から、今日は再会の盃を受け取って欲しいと言われたのだから、私は断ることが出来なかったのだ。

「それにしても、お前が働いている『貸本屋』の主人ってのは、とんでもねぇ野郎だな! 魚もまともに食えないどころか、仕事まで全部お前任せだなんてっ!」

「あはははっ。先生の甲斐性なさは、今に始まった事ではありませんから」

 今まで自分を放っておいた相手と、自分を拾ってくれた人について話している事を不思議に思いながら、私は朗らかに笑う。

「でも、これがきっと先生の答えなんだと思うんですよ。どう生きればいいのか、生きるために必要な事を、今実施させてもらえてるんだと思います」

「いいや、おいらはそうは思わねぇ! 大体、おいらが渡した五両っちゅー金を取り上げるような奴に、お前をもう任せておけねぇ!」

「あはははっ……」

 父から渡されたお金は、店を飛び出してくる際一緒に放り出してきてしまった。本当は私が悪いのだが、今更訂正する気にもなれない。もう暫くの間、先生には悪役になってもらおう。

 鰻屋を出てから同じ道を歩いていた十徳を羽織った剃髪の男性と別れて、私は先に進む父の後を追って、平久川に沿って南に向かって歩いて行く。闇の中から聞こえるのは、川のせせらぎの音だけだ。

「お亀。やっぱり、おいらと暮らさねぇか?」

 人通りがなくなったのを見計らったように、父は私に振り向いた。

「今のおいらなら、お前に不自由な生活をさせることはねぇ。今のところをやめて、おいらの所に来い。な?」

 確かに父の言う通り、父と暮らすのであれば私の生活環境は一変するだろう。本に囲まれる事もなく、畳のある普通の家で、上等な着物を着て、今よりも良い食事が出来るはずだ。

 そんな生活も、悪くはないと思えた。

 母が、生きていたのなら。

 あるいは、父が本当に更生してくれていたのなら。

「父上。まだ私に、隠している事があるんじゃないですか?」

「な、なんのことだよぉ!」

 目に見えて狼狽する父を見て、私は落胆のため息を付いた。やっぱりこの人は、まだ私に話していないことがある。

「最初に変だと思ったのは、父上が待ち合わせ場所に鰻屋を指定した時です。父上は、江戸に仕事があると聞いてすぐさま飛びついた、と言っていました。江戸に来たばかりの父上が、何故そんなに江戸のことについて詳しいのですか?」

「そ、そりゃあ、お前、あれだよ! 仕事の合間に、お前らを探してたんだ。江戸の事ぐらい、多少詳しくならぁっ!」

「……私も、そう考えました。でもそうすると、やっぱりおかしいんです」

 私は絞り出すように、父の間違いを指摘する。

「仕事をしているのなら、何故父上は奉公人のことを江戸では丁稚ではなく、小僧と呼ぶことを知らなかったんですか? 江戸で仕事をしているなら、そうした上方との習慣の違いには、必ずぶつかるはずなんです!」

 私がそうだったように。

 私は未だ上方の方式である銀貨で貸出帳簿を付けてしまうこともあるし、挙句文字までたまに間違える。でも、上方から出てきて、地べたを這いずり回りながら江戸で暮らしていくのであれば、そうした問題にぶつかるのはある意味当然のことだ。

 でも、父にはそれがない。

 私に渡した五両は、汗水垂らして働いたお金じゃない。あれは、必死になって生きようとしたお金ではなかった。

 そう考えると、色々と辻褄が合ってくる。

『葉茶屋』の竹さんから聞いた、『相談屋』を探しているという人物。それは父の事だ。私はあの時、竹さんから聞いた『相談屋』さんの事を、先生の事だと思っていた。でも、竹さんは先生の事を『相談屋』の旦那と呼んでいたのだ。

 つまり竹さんは『相談屋』さんと、私の事を話していたのだ。

 すると事実として、私の父が上方から品川まで出てきて、私の事を探しているという意味になる。

 では久蔵さんが大宮さんの所の番頭さんから聞いた、『相談屋』の旦那を探しているという話は? あれは今日店で見た、『辰巳芸者』の事だ。

 何故あの女性がそんなことをするのか? 先生とどういう関係なのか? 理由は未だに分からないが、『辰巳芸者』が先生を探していたというのが、久蔵さんが大宮さんの所の番頭さんから聞いた話の真相だろう。

『相談屋』さんを探しているという全ての話が、先生を誰かが探しているという私の考え自体が、間違っていたのだ。

 全て、別物。分けて考えなければならなかった。

 だとすると、清兵衛さんから聞いた、上方から江戸にやって来たよそ者も分けて考えなければならない。いや、そもそも先生が既にその正体について言及していたではないか。

 単なる商人だと。

 つまり――

「父上は上方で借金をして、その借金取りが江戸にやって来ているのですね?」

「何だぁ? 変な格好しているかと思えば、頭は働くようじゃねぇか」

 私の声に応じたように、闇の中から男の声が聞こえてくる。聞こえた声は一つだったが、現れた人影は五人分。前方に二人、後方に三人と、父と私の逃げ場をなくすように彼らは現れた。その五人とも、脇に刀を差している。

 しかし意外なことに、この状況を一番驚いていたのは、私の父だった。

「ま、待ってくれ! 期限まで後十日あるはずだ! それまでに仕事が見つかれば、お亀には手を出さないって約束だったじゃないかっ!」

「んなこと言って、今まで仕事が決まった試しがあるのかい? 大工の熊五郎さんよぉ!」

 そう言って金貸し、いや、刀を持っていることから身分を帯刀が許されている医者と言い張っているのだろう五人は、一斉に鯉口を切った。

「まだわけぇんだ。どこに沈めても、それなりに稼いでくれるだろうぜ」

「……なるほど。私を借金のかたにしたわけですか」

 刀を抜いた五人を油断なく見つめたまま、私は冷ややかな口調で父に問いかける。

「それで? 今は一体いくら借金があるんですか?」

「さ、三百両……」

「三百両!」

 父の口から飛び出したあまりの金額の大きさに、私は一瞬目眩がした。それを見た男たちが、下卑た笑い声を出す。

「体は資本って言うだろぉ? おとなしく捕まってくれねぇかなぁ」

「こっちとしても、手荒な真似したくないんだよねぇ」

「大切な『商品』を、傷つけたくねぇからよぉ」

 猥雑に笑う彼らを見て、私は大きな溜息を付いた。

「……確かに、それはそうですね」

「お、お亀っ!」

 父が何を勘違いしたのか、私を庇うように前に出る。明らかに震えている体をいっぱいに広げ、私を河川敷へと逃がそうとしているようだった。

「や、やめろ! お、おおお亀には、お亀には指一本触れさせないぞっ!」

 酒に溺れ、女に入れ込み、仕事もしないで今や借金まみれ。

 私はこの人を、恨んでいる。憎んでいる。借金の話を聞いて、私の中のその想いはより強くなった。

 それでも父は、震えながら私の前に立っていた。

 本当に。

「うっせーんだよ爺っ!」

 何で、今更。

「てめぇはお呼びじゃねぇんだよっ!」

 頑張りどころが、違うだろうにっ!

「そうです。どいてください、父上」

「へ?」

 私は父の背中から抜けだすと、近くにいた一人に向かって駆け出した。狙いは前方からやって来た二人の内の一人。

 慌てたように構える男に向かって、私は地面の砂利を掴むと、無造作に男の顔面目掛けてそれらを放り投げた。

 顔に振りかかる石を防ごうと、男がその手で自分の視界を塞ぐ。そこに潜り込むようにして、私は体を滑りこませた。そこは既に刀だけでなく、徒手空拳の間合いになっている。

 私は男の腕を取り、胸ぐらを掴むと、足をかけて気合一閃。内股で男を投げ飛ばす。

 投げ飛ばされた男は、背中からもろに地面へと激突。空気の塊を吐きながら、白目を向いた。

「お、お亀?」

 騒然となる男たちと、唖然となる父に向かって、私は威嚇するように息を吐く。

 母が死んだ時、私は何も出来なかった。

 その時の夢を見る度、自分の無力さを嘆いた。

 だからこそ私は、私を救ってくれた先生から、体術の指導を受けている。大横川の河川敷に草が生えない程踏み固められた箇所があるのは、先生と出会ったあの晩から毎日続いている指導の結果だ。

 だからこそ、私は読み書き算盤を覚えた後も、先生の事を生きるための技術を教えてくれる『先生』と呼んでいる。

 私はもう、守られるだけの存在じゃない。

 理不尽な暴力からも、誰かを守れるのだ。

 父と私を囲む彼らを睨み付けて威嚇する。と――

「なるほど。多少腕には自信があるようだな」

 そう言って、着流し姿の男が、新たに路地裏から現れた。漆黒の着物は陰鬱なその男の顔と相まって、嫌な不吉さを醸し出している。

「拙者が相手をしよう。お主たちは下がっておれ」

 他の男たちに指示を出しながら、男は刀を抜いた。たったそれだけで、私は背筋に刃を当てられたような寒気を感じる。

 やがて男は刀を構え、叫び声とともにこちらに向かって斬りかかってきた。

「天真正伝神道流、表之太刀! 六津之太刀っ!」

「え?」

 切っ先が月光を反射し、刀が燕のように閃いた。

 男が言った言葉に一瞬の疑問を挟んだために刀を避けるのが遅れ、私の髪の毛が数本刈り取られる。

 そもそも素手の私では、相手に近づくまで刀を避けるしかない。躱して反撃しようにも、予めどこに躱すのか男は事前に知っているかのように、刀は私を必要に付け狙う。

 連撃に接ぐ連撃、そしてお酒の酔がここで回ってきて、私の体はついに刀で打ち据えられた。

 私の体に、衝撃が走る。

「峰打ちじゃ。安心せい」

 男はそう言うが、私にしてみれば鉄の棒で殴られたようなもの。視界がふらつき、気づいた時には他の男たちに組み伏せられていた。

「お亀! お亀っ!」

 父の声に、視線を向けると、父も私と同じように組み伏せられている。と、そこで私のみぞおちに衝撃が走った。

「調子に乗りやがって、この野郎っ!」

 私が投げ飛ばした男だった。一度蹴っただけでは腹の虫が収まらなかったのか、二度、三度と私を蹴り続ける。

「おい、やめろ! 顔に傷が付いたらどうするんだっ!」

「あぁ? こいつに男の相手が出来るのかよ?」

「だったら、ここで試してみようぜ。もう吉原には話を通してあるんだ」

「そりゃいいや!」

 嘲りを隠そうともせず、男たちは私の着物を引き剥がす。現れたそれを見て、男たちは喜色の表情を浮かべた。

「見ろよ! いっちょまえにさらしなんて巻いてやがるぜっ!」

「やめろ! お亀っ! くそっ! お前ら放せ! 遊亀能(ゆきの)を放せっ!」

 父から久しぶりに呼ばれた名前を、私は顔をうつむかせ、恥辱に震えながら聞くことしか出来ない。

 普段は歌舞伎役者もかくやという格好をしているが、私は正真正銘の女だ。

 先生からはかつて自分にあった格好をしろと言われたが、『貸本屋』の仕事ではこの格好の方が受けがいいため、止めることが出来ない。久蔵さんも私が女だから、それらしい格好をした私の事を先生の妻だと勝手に勘違いしてくれたし、葵様からは少しいじれば花魁を目指せると言われたこともあるが、私にはその気が全くない。

 先生は女の私にはいずれ誰かに嫁ぐ際に必要だからと料理も仕込まれているが、私にとってそれは路頭に迷った時に備えて習っているという感覚でしかなかった。

 そうした普段から男のような格好をしている私だからこそ、一目で店から出てきたのが男の格好をした女性である『辰巳芸者』だと気付けたのだし、相手も私の格好を見て最初は同業者だと勘違いしたのだろう。だから私を見て、見かけない顔、と言ったのだ。

 しかし、普段からどのような格好をしていようとも、父を追ってきた金貸したちには関係ない。興味が有るのは、私を借金のかたとして、遊女として売れるかどうか。それだけだ。

「どれ? 吉原に沈める前に、味見でもしてみるか?」

 下卑た笑いが聞こえる中、父の慟哭が闇夜に吸い込まれていく。

「やめろっ! 放せっ! おいらはどうなってもいい! 娘には手を出すなっ!」

「うるせぇぞ!」

「黙ってろ爺。興が削がれらぁ」

 殴り、蹴られる父は、それでも助けを求める声を止めなかった。

「誰かっ! 助けて! 助けてくださいっ!」

「がはははっ! こんな夜更けの、こんな所に、誰も助けになんて来るわけねぇだろうがっ!」

 嘲笑と哄笑と痙笑の不協和音を聞きながら、私は涙が出そうになるのを、必死になって、歯を食いしばって耐えていた。

 今度こそ、守れると思っていた。

 でもそれは、自分の自惚れだった。

 自分自身を嘲罵し、痛罵し、唾罵し、冷罵しながら、私はあの時叶わなかった願いを口にする。

「助けて、ください。先生っ!」

 それを聞いた男たちが、大きな笑い声を上げる。

「はぁ? だからぁ、助けなんて――」

「はい。助けましょう」

 今度の願いは、叶った。

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