③
「……すみません」
「なに、気にすんな。親子だろ」
ひとしきり泣き終えた後、私は父に支えられながら『茶屋』にやって来ていた。赤い野点傘の下、緋毛氈がかけられた縁台に父と二人で座り、お茶をすする。嚥下したお茶は零した涙の分だけ体に染みわたり、体の底から温かくなった。
「それで、お亀。お前、今何してるんだ? 仕事は?」
「……今は、私を拾ってくださった『貸本屋』で働いています」
「『貸本屋』の丁稚か」
「こっち(江戸)では、小僧と言うそうですが」
「へぇ、そうなのか。知らなかったな」
『茶屋』にお茶の葉を届けに来た『葉茶屋』の二人組を横目に、私は父に答える。
「読み書きも算盤も、そこのご主人に教わりました。今も住み込みで働かせてもらってます」
「そいつぁいけねぇっ!」
私の話を聞いた父はいきり立つと、私に向かって紅葉色の巾着袋を差し出した。
「これを見れば、おいらがどれだけ真面目に働いてるかわかってもらえるはずだ。上方で大工をして貯めたこの金で、もっとちゃんとした、まともな身なりを整えろ」
困惑しながら巾着袋を受け取り、私は中身を確認する。
中に入っていたのは、五両という金だった。
酒に溺れ、遊女に入れ込んでいた父には用意できるはずもない大金が、そこにはあった。
「……お亀。こんなことを言うのは、都合がいいことを言っているっていうのは、わかってる。でも、言わせてくれ。おいらと一緒に、江戸で暮らさないか?」
「父、上?」
「今のおいらなら、お前を養っていくだけの余裕も、十分にある。何も不都合させねぇ。今までの償いをさせて欲しい。おっかさんの分も含めて。頼む、この通りだっ!」
「ちょっと! やめてください! 頭を上げてっ!」
地面に両膝を付き、額を砂利がめり込むまで押さえつける父に、私はただただ狼狽するしかなかった。
「今の仕事もありますし、『貸本屋』のご主人にも相談しないと……」
「そうか、そうだな。すまん。おいら、話を急ぎ過ぎたな。じゃあ、どうだ? せめて今晩、夕食を一緒にとってくれないか? そうだ、鰻でも食いに行こう!」
「それぐらいなら、構わないと思いますけど……」
「よし、決まりだ! それなら今晩、楽しみにしてるぞ!」
それから父は『茶屋』の代金を支払うと、私に待ち合わせ場所を伝え、去っていった。
私もうちの店に向かって、歩き始める。一歩、また一歩と歩く度その速度は増していき、いつしか私は走りだしていた。
先生に、会いたかった。
会ってこの事を、相談したかった。
先生の、あののんきな笑顔が、どうしようもなく見たかった。
すれ違う人たちを置き去りにするように、私は全速力で町を駆けて行く。涙で視界が滲むが、それも額を流れる汗とともに宙へと流れ落ちていった。
私には、わからないことが多すぎる。先生みたいに神業でお得意様を増やすことなんて出来ないし、父とどう向き合えばいいのかすらわからない。
まだ憎いのだ。私と母を捨てた父が。
それでも嬉しかったのだ。父が真面目に働いてくれているらしいということが。
相反する感情が濁流のように私の思考をかき乱し、自分の激情が狂ったように暴れて、何もかもが歪んで見える。
私の事なのに、私は私がわからない。
それでも私は先生に会えば、先生なら答えをくれるはずだと、何故だか私はそう確信していた。
まるで赤子が、母親から無常の愛を与えられると信じきっているように。
その愛情は血の味をしていると、私は知っていたのに。
父親から捨てられた私は、妄信していたのだ。
だから、店の中から出てきたその姿を見た瞬間。
私の思考は、止まった。
「それじゃあ、今日はこの辺で。後で何か聞きたいことでも思いついたら、いつでも俺を呼びな」
「はい。ありがとうございます」
「遠慮すんなよ? ようやく探し出せたんだ。たまには俺も顔を出すよ」
先生に見送られ、一人の影が店から出てくる。素足に草履を履き、着ている着物は地味な鼠色で、その上から羽織を引っ掛けていた。格好だけ見れば、男の風貌をしているように見えなくもない。
しかし私は一目見て、出てきた人が『辰巳芸者』であることに気がついた。
この店が建つ深川にも、花街が存在する。深川八幡宮周辺は岡場所であり、吉原の豪華絢爛に対し、深川は気風と粋を重んじる『辰巳芸者』としてもてはやされていた。深川蛤町に富裕な木場商人を抱えていたこともあり花街は繁盛し、更に釣りや磯遊びにきた町人の遊興地としても栄えているのだ。それは深川に住んでいる以上、私も知っている。
問題なのは、何故その花街から来た女性が、ああも先生と親しげに話しているのか? ということだ。
うちから出てきた『辰巳芸者』が私に気が付き、こちらの方に近づいてくる。
「ん? なんだい? 俺の顔をじろじろと見て。それに、見かけない顔だね?」
「……私は先生の、『貸本屋』にご厄介になっている者です」
「ああ、あいつの言っていた奉公人って、お前のことか! なるほど。いい面してやがる」
馴れ馴れしい彼女の言葉に、私は苛立ちとむかつきが沸き起こるのを、どうにかして押さえつけていた。
「……失礼ですが、先生とはどういったご関係で?」
「どういったって――」
そこまで言って、女性は嫌らしく口の端を釣り上げた。
「どういう関係かは、あいつの口から直接聞きな」
そう捨て台詞を残して、彼女は去っていった。
言い知れぬ敗北感に歯ぎしりをしながら、私は店の扉を強引に開け放つ。
「おや? お帰りなさい、亀さん」
いつものように、先生が笑顔で私を出迎えてくれる。でも、いつもなら心底安心出来るその笑顔を見ても、私の中には焦燥感しか巻き起こらない。胸中渦巻くそれは、言葉となって私の口から零れ落ちた。
「何で、ですか?」
「ん? どうしたんです? 亀さん」
「何で、深川の遊女がうちに? 何で? 何であんなに先生と親しげにしてたんですか?」
焦るようにして口から溢れる言葉は、とっ散らかりながらも、辛うじて意味のある言葉となってくれていた。
いつもなら、そんな私を先生が導いてくれる。そのはずだった。そう信じていた。信じたかった。
でも――
「亀さん。さっきまでお店にいらした方は、芸は売っても色は売らない『辰巳芸者』さんですよ? いわゆる床入りを前提にしているような遊女とは、違います」
「そんなの、幕府の目を誤魔化す方便じゃないですかっ!」
遊女を庇う先生の言葉に、私の怒髪が天を衝いた。
「どうして? どうしてあんな奴を庇おうとするんですか! どうしてっ!」
「……落ち着いてください、亀さん。どうしたんですか? 様子が変ですよ? 何かあったんですか?」
「何かって……」
先生の言葉に、私の世界は崩れ去る。今自分が立っている場所が、砂上の楼閣であるかのように体が沈んだと錯覚し、私は前後不覚に陥った。
全ての過去が走馬灯のように私の脳裏を駆け抜けていき、ついに先生の顔が、父の顔と重なる。私と母を追い出した、遊女に入れ込んでいた頃の、私の大っ嫌いな父の顔と、先生の顔が。
だから、私は叫んでいた。
「先生の、馬鹿ぁぁぁあああっ!」
『貸本屋』の商いに必要なものを、一切合切店の中に放り出し、完全な手ぶらとなった私は先生の言葉に背を向けて、逃げ出すように走りだしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます