「……すみません」

「なに、気にすんな。親子だろ」

 ひとしきり泣き終えた後、私は父に支えられながら『茶屋』にやって来ていた。赤い野点傘の下、緋毛氈がかけられた縁台に父と二人で座り、お茶をすする。嚥下したお茶は零した涙の分だけ体に染みわたり、体の底から温かくなった。

「それで、お亀。お前、今何してるんだ? 仕事は?」

「……今は、私を拾ってくださった『貸本屋』で働いています」

「『貸本屋』の丁稚か」

「こっち(江戸)では、小僧と言うそうですが」

「へぇ、そうなのか。知らなかったな」

『茶屋』にお茶の葉を届けに来た『葉茶屋』の二人組を横目に、私は父に答える。

「読み書きも算盤も、そこのご主人に教わりました。今も住み込みで働かせてもらってます」

「そいつぁいけねぇっ!」

 私の話を聞いた父はいきり立つと、私に向かって紅葉色の巾着袋を差し出した。

「これを見れば、おいらがどれだけ真面目に働いてるかわかってもらえるはずだ。上方で大工をして貯めたこの金で、もっとちゃんとした、まともな身なりを整えろ」

 困惑しながら巾着袋を受け取り、私は中身を確認する。

 中に入っていたのは、五両という金だった。

 酒に溺れ、遊女に入れ込んでいた父には用意できるはずもない大金が、そこにはあった。

「……お亀。こんなことを言うのは、都合がいいことを言っているっていうのは、わかってる。でも、言わせてくれ。おいらと一緒に、江戸で暮らさないか?」

「父、上?」

「今のおいらなら、お前を養っていくだけの余裕も、十分にある。何も不都合させねぇ。今までの償いをさせて欲しい。おっかさんの分も含めて。頼む、この通りだっ!」

「ちょっと! やめてください! 頭を上げてっ!」

 地面に両膝を付き、額を砂利がめり込むまで押さえつける父に、私はただただ狼狽するしかなかった。

「今の仕事もありますし、『貸本屋』のご主人にも相談しないと……」

「そうか、そうだな。すまん。おいら、話を急ぎ過ぎたな。じゃあ、どうだ? せめて今晩、夕食を一緒にとってくれないか? そうだ、鰻でも食いに行こう!」

「それぐらいなら、構わないと思いますけど……」

「よし、決まりだ! それなら今晩、楽しみにしてるぞ!」

 それから父は『茶屋』の代金を支払うと、私に待ち合わせ場所を伝え、去っていった。

 私もうちの店に向かって、歩き始める。一歩、また一歩と歩く度その速度は増していき、いつしか私は走りだしていた。

 先生に、会いたかった。

 会ってこの事を、相談したかった。

 先生の、あののんきな笑顔が、どうしようもなく見たかった。

 すれ違う人たちを置き去りにするように、私は全速力で町を駆けて行く。涙で視界が滲むが、それも額を流れる汗とともに宙へと流れ落ちていった。

 私には、わからないことが多すぎる。先生みたいに神業でお得意様を増やすことなんて出来ないし、父とどう向き合えばいいのかすらわからない。

 まだ憎いのだ。私と母を捨てた父が。

 それでも嬉しかったのだ。父が真面目に働いてくれているらしいということが。

 相反する感情が濁流のように私の思考をかき乱し、自分の激情が狂ったように暴れて、何もかもが歪んで見える。

 私の事なのに、私は私がわからない。

 それでも私は先生に会えば、先生なら答えをくれるはずだと、何故だか私はそう確信していた。

 まるで赤子が、母親から無常の愛を与えられると信じきっているように。

 その愛情は血の味をしていると、私は知っていたのに。

 父親から捨てられた私は、妄信していたのだ。

 だから、店の中から出てきたその姿を見た瞬間。

 私の思考は、止まった。

「それじゃあ、今日はこの辺で。後で何か聞きたいことでも思いついたら、いつでも俺を呼びな」

「はい。ありがとうございます」

「遠慮すんなよ? ようやく探し出せたんだ。たまには俺も顔を出すよ」

 先生に見送られ、一人の影が店から出てくる。素足に草履を履き、着ている着物は地味な鼠色で、その上から羽織を引っ掛けていた。格好だけ見れば、男の風貌をしているように見えなくもない。

 しかし私は一目見て、出てきた人が『辰巳芸者』であることに気がついた。

 この店が建つ深川にも、花街が存在する。深川八幡宮周辺は岡場所であり、吉原の豪華絢爛に対し、深川は気風と粋を重んじる『辰巳芸者』としてもてはやされていた。深川蛤町に富裕な木場商人を抱えていたこともあり花街は繁盛し、更に釣りや磯遊びにきた町人の遊興地としても栄えているのだ。それは深川に住んでいる以上、私も知っている。

 問題なのは、何故その花街から来た女性が、ああも先生と親しげに話しているのか? ということだ。

 うちから出てきた『辰巳芸者』が私に気が付き、こちらの方に近づいてくる。

「ん? なんだい? 俺の顔をじろじろと見て。それに、見かけない顔だね?」

「……私は先生の、『貸本屋』にご厄介になっている者です」

「ああ、あいつの言っていた奉公人って、お前のことか! なるほど。いい面してやがる」

 馴れ馴れしい彼女の言葉に、私は苛立ちとむかつきが沸き起こるのを、どうにかして押さえつけていた。

「……失礼ですが、先生とはどういったご関係で?」

「どういったって――」

 そこまで言って、女性は嫌らしく口の端を釣り上げた。

「どういう関係かは、あいつの口から直接聞きな」

 そう捨て台詞を残して、彼女は去っていった。

 言い知れぬ敗北感に歯ぎしりをしながら、私は店の扉を強引に開け放つ。

「おや? お帰りなさい、亀さん」

 いつものように、先生が笑顔で私を出迎えてくれる。でも、いつもなら心底安心出来るその笑顔を見ても、私の中には焦燥感しか巻き起こらない。胸中渦巻くそれは、言葉となって私の口から零れ落ちた。

「何で、ですか?」

「ん? どうしたんです? 亀さん」

「何で、深川の遊女がうちに? 何で? 何であんなに先生と親しげにしてたんですか?」

 焦るようにして口から溢れる言葉は、とっ散らかりながらも、辛うじて意味のある言葉となってくれていた。

 いつもなら、そんな私を先生が導いてくれる。そのはずだった。そう信じていた。信じたかった。

 でも――

「亀さん。さっきまでお店にいらした方は、芸は売っても色は売らない『辰巳芸者』さんですよ? いわゆる床入りを前提にしているような遊女とは、違います」

「そんなの、幕府の目を誤魔化す方便じゃないですかっ!」

 遊女を庇う先生の言葉に、私の怒髪が天を衝いた。

「どうして? どうしてあんな奴を庇おうとするんですか! どうしてっ!」

「……落ち着いてください、亀さん。どうしたんですか? 様子が変ですよ? 何かあったんですか?」

「何かって……」

 先生の言葉に、私の世界は崩れ去る。今自分が立っている場所が、砂上の楼閣であるかのように体が沈んだと錯覚し、私は前後不覚に陥った。

 全ての過去が走馬灯のように私の脳裏を駆け抜けていき、ついに先生の顔が、父の顔と重なる。私と母を追い出した、遊女に入れ込んでいた頃の、私の大っ嫌いな父の顔と、先生の顔が。

 だから、私は叫んでいた。

「先生の、馬鹿ぁぁぁあああっ!」

『貸本屋』の商いに必要なものを、一切合切店の中に放り出し、完全な手ぶらとなった私は先生の言葉に背を向けて、逃げ出すように走りだしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る