町を歩いていると、先生が読み書きを子供たちに教えているというのもあり、よく私は声をかけられる。

「あら、こんにちはお亀ちゃん」

「こんにちは、女将さん」

「おう、亀ちゃん! 調子はどうだい?」

「おかげさまで、元気にやらせてもらってます」

「亀さん、読み書きも出来るし、どうだい? うちに来ないかい? お給金は今のところの倍出すよ?」

「……い、いえ、今の仕事が気に入っておりますので」

 最後の誘い文句はものすごく、もっんのっすっごっく魅力的だったが、後ろ髪を引かれながらも辞退した。

 自分を拾ってくれた先生にご恩返しが出来るまで、私は先生の元から去るつもりはさらさらない。

 だからその出会いは、私には突然過ぎた。

「お亀? お前、お亀かい?」

 いつものようにお得意様を回っている途中、不意に聞き覚えのある声がした。

 でも、私はそれをすぐさま否定する。

 だってあの人は上方にいるはずで、今頃入れ込んでいた遊女と、私と母を追い出したあの家で酒に飲まれて暮らしているはずで。

 それでもあの声は間違いなく、間違いようもない程知っている声だった。

 私は歯と歯がかち合い、はた迷惑な音を自分の口が鳴らすのを聞きながら、震える体を、自分の名を呼んだ方向に徐々に向けていく。

 そこにいたのは、やはり――

「おとっつぁん、かい?」

「お亀! やっぱりお亀かっ!」

 私の父が、そこにいた。

 全身がわなわなと震え、背中にじとっと嫌な汗が滝のように流れ落ちる。

 嬉しそうに私に向かって手を振る父を、私は放心状態になりながら見つめていた。

「お亀! おいらのこと、わかるかいっ!」

 父が、こちらに向かって歩いてくる。父と五年以上も別れて暮らしていたが、巌のようないかつい顔は相変わらずだった。ただ、五年前に比べて白髪の数が多くなったように感じる。

 大工の仕事もせず、酒に溺れ、遊女に熱を上げていた父との突然の再会に、私はただ呆然とするしかなかった。

「こっち来な。こっち来いよ!」

 言われるがまま、私は父に道の脇へと連れて行かれる。

「しばらく見ないうちに、大きくなったな」

「……うん。父上も、大きくなったね」

「よせよおい! それに何だ? その喋り方は」

「……どうして」

「ん?」

「どうして、ここにいるの?」

 五年ぶりにあった父に向かって、私はようやくそれだけつぶやけた。

 今、まだ私の頭は混乱している。

 母と私を追い出した父、そして私たちから父を奪った遊女に対する憎悪が沸き起こる。けれども久々に会った父への懐かしさも確かに私の中に存在して、自分の気持ちに整理が付けられない。

 何で今更? 何でこんな時に?

 思考が乱れ、視界が渦を巻いたと錯覚する。

 そんな私に向かって、父は気まずそうに鼻をかいた。

「お前たちと別れた後なぁ。おとっつぁん、京島原から女を家に引っ張りこんだんだが、こいつがひでぇ女でよ。昼間っから酒ばっかり飲んで、なんにもしやがらねぇんだ。弱ってたんだが、これがいい塩梅に勝手に向こうから、家出て行った。ほっとしたのはいいんだが、何でおいらあんな馬鹿なことしちまったのかと思って、てめぇにてめぇで腹が立ってな。そうなるとおいらのことだ。すぐさま酒屋に飛び込んでって、升の隅から酒を飲もうとした、途端にだよ。酒の臭いを嗅いで、おいらこいつのせいであんな馬鹿なことしちまったんだと思ってなぁ。もうそっから、酒は一滴も飲んでねぇ。女もやらずに、仕事一筋よ。一生懸命働いてたら江戸に仕事があるって聞いて、すぐさま飛びついたのさ」

「……何で?」

「決まってるだろ。お前らが江戸に行ったって聞いたからだよ」

 本当に。

「お亀。今どこに住んでんだ?」

 何で、今なんだろう?

「おっかさんは? お光は、達者にしてるか?」

 どうして、今更。

「……母上は」

 酒も女も止め、真人間になったと言う父に向かって、私は震える口を開いた。

「死にました」

「なっ!」

 驚愕の表情を浮かべる父に、私は切歯扼腕しながら言葉を紡いでいく。

「五年前、上方から江戸に発って、後少しで江戸に入るという所で物取りに襲われて……」

 そこから先は、言葉にならなかった。ただただ両目からは涙が、口からは嗚咽が溢れ出し、止まらなかった。

 あの時の自分の無力さを思い出し。

 父に対する憤りもごちゃまぜになり。

 私は人目も憚らず、泣いた。

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