第四章 子別れは阿三の森で
①
「はい。それでは授業を始めましょうか」
先生の言葉で、周りに集まった子供たちが顔を上げた。
先生たちがいるのは、うちの店の近くを流れる大横川の河川敷。雑草が自由気ままに生えるその場所に、不自然な空白が存在している。それはまるで何年もの月日をかけて、草が生えぬまで踏み固められているかのようだった。
……ようだったも何も、実際その通りなんですけどね。
踏み固められているのは、私と先生の毎晩日課となっている指導の結果だ。そうした草が生えていない地面は樹の枝なので文字が書きやすく、昼間であれば巨大な白板として、読み書きを教えるのに便利な場所となる。高価な紙も必要とせず、間違えても踏んで消せる地面は、素読の指南をするのに最適な場所だった。
数年前の自分を見ているような気持ちで、私は先生の話を聞く子供たちに目を向ける。私もかつて、ここで先生から読み書き算盤を教わったのだ。
あまりに働かない先生を、どうせ本を読むなら近所の子供たちに読み書きを教えながら読んでくださいと丸め込んでから、早三年。四日間隔で裏長屋に住む子供たちを集めて、先生には読み書きを教えてもらっている。
無論ただというわけではなく、子供のご両親が八百屋であれば野菜を、豆腐屋であれば豆腐の値段を割り引いてもらったり、米、味噌、醤油なども融通してもらったりしていた。
先生がたまにさぼることがあるので、こうして仕事の合間に私が見に来ているのだが、今日は真面目に授業をしているようだ。
先生は地面に文字と絵を描きながら、子供たちに向かって口を開く。
「『しなわるる、だけは答えよ、雪の竹』。これは雪が積もって折れ曲がった笹竹も、春になれば元に戻るという、堪忍の心持ちを表した芭蕉の賛になります。掛け軸なんかを見て、これはいい賛ですねぇ、なんて褒めると、大変喜ばれますよ」
それを聞いた子供の一人が手を上げ、先生が地面に描いた別の物を指さした。
「三? じゃあ先生、これはいい三なの?」
「いえ、それは『近江の鷺は見難く、遠樹の烏見易し』と言いまして、人間の善悪を表した根岸にお住みの亀田望斎先生の詩になります。近くの雪の中の鷺は色が白いので目立たないが、遠くの烏は黒いのでよく目立つ。つまり、いいことをしても人には中々知ってもらうことは出来ないけれども、悪いことはすぐに知れてしまうので、悪いことは出来ない、という意味ですね」
「え? 四? じゃあこっちの文字ばっかりのは、いい四ですね?」
「それは一休禅師の悟ですね。『仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売り、汝五尺の身体を売って、一切衆生の煩悩を安んず。柳は緑、花は紅の色いろ香。色即是空、空即是色。池の面月は夜な夜な通えども、影も止めず水も濁さず』と書いてあります」
「……五? 一つずつ上がるのかな? じゃあ、こっちのは、いい六ですね!」
「『長き夜の、遠の眠りの、みなめざめ、波乗り舟の、音のよきかな』。上から読んでも下から読んでも同じ回分でして、これは七福神の宝船、ああ、こらこら金さん! せっかく書いたんですから、消さないでくださいっ!」
……今晩にでも、子供に教える読み書きの内容について、先生と話し合ったほうがいいかもしれない。
そう思いながら、私は河川敷を後にした。
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