②
「くっ!」
私は流れる汗を拭く間すら惜しみ、果敢に手にした刃を振るっていく。
だが――
「そこ、まだ甘いですよ」
先生の指摘に、私は内心舌打ちをした。先生の指摘通り、私の体重移動には、まだ無駄がある。火花が散り、熱が頬を焦がした。
私は切っ先を向けた先へ、躊躇なく踏み込む。得物から指に伝わる感触に、私は手応えを感じた。
しかし。
「残念。小口切りにした長葱、下の部分がつながってますよ」
「ああ、もう! 横から色々言わないでくださいよ、先生っ!」
暁八つ半(午前三時)になろうという頃、私は必死に朝餉の準備をしている所だった。私が悪戦苦闘している横で、先生は私のために昼餉のお弁当を作ってくれている。弁当と言っても、握り飯が中心だ。
先生は朝食の味噌汁のだしに使った鰹節を竈で炙り、焦げ目を付けている。香ばしい臭いが漂い始めるとともに、先生はそれを醤油、味醂に和えて、茶碗の中の雑穀米に混ぜていく。その間に、今度は海苔が竈で炙られていた。
「亀さん。お鍋、吹き零れますよ?」
「え? あっ!」
先生のあまりの手際の良さに、私は思わず見とれてしまっていた。慌てて鍋を上げ、どうにか朝食の味噌汁がなくなるのを防ぐ。
私があたふたしている間に、先生はおかかのおにぎりを完成させ、胡麻をまぶして竹細工の弁当箱へと収納。二つ目のおにぎりに取り掛かろうとしている所だった。
菜箸の先に味噌をつけ、それを竈にそのまま放置。焦げ目が付く頃には、まな板に荒く刻んだ梅干しの姿があった。種を砕かないように甘く刻んだ梅に、焦がした味噌が投入される。竈は菜箸と海苔を交換し、菜箸はそのまま梅と味噌を和えていく。後はそれを米の中に入れて、たっぷりと醤油に浸した海苔を再度竈で炙った海苔で包み、私の昼餉が完成した。
竹細工の中には二種類のおにぎりと、沢庵が入っている。
「亀さんの方は、どうなってますか?」
「えうぇえっと!」
今日私が予定していた朝食は、長葱の味噌汁に、こんがりと焦げ目を付けた厚揚げだ。
しかし、ようやく味噌汁が出来た所で、厚揚げにはまだ取り掛かれていなかった。
「す、すみません。厚揚げすぐに焼きますから!」
「そうですか。それではわたしは、厚揚げの上に乗せる大根でもすってますね」
「お、お願いします……」
ご飯は、おにぎりのお米と一緒に炊いてある。厚揚げも昨日買っておいたものを焼くだけだ。
厚揚げを竈で焼きながら、大根おろしをおろし金も使わないで作っていく先生を横目で見る。大根自体に細かなさいの目状の切り目を入れておき、後は千切りの要領で切れば大根おろしの出来上がりだ。
先生からは、いずれ必要になる時が来るだろうからと、料理を仕込まれている。一通りの事は出来るようになったつもりだが、やはり先生の腕には及ばない。
朝餉を千両箱に乗せ、先生と一緒に手を合わせる。いただきます。
「長葱は押すというより、引くようにして切った方がいいですよ。その方が、くっつきません」
「……はい」
「後は、色々と考え過ぎですかね? あれもこれも、ではなく、一つ一つを確実に処理していった方が全体の無駄がなく、失敗も少なくなると思いますよ」
食事を取りつつ、先生から朝食作りの駄目出しをもらう。いつもの日課だった。
「さて、今日は亀さん、どの方面まで足を伸ばしますか?」
「麻布方面まで、出ようかと思います」
「なるほどなるほど。それではそれ用に、荷を作っておきますね」
そう言って先生は、食器を洗った後、二度寝するために二階へ上がっていった。
それを見送りながら、私は渋い顔で番茶をすする。
『貸本屋』を続けて行く限り、料理の腕はそこまで熱心に磨かなくてもいいのかもしれない。しかし放蕩生活を送る先生を見ていると、いざという時に備えて料理ぐらい出来るようになっておいた方がいいと、私は強く感じていた。
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