日付の変わった暁九つ(午前零時)。その鐘の音を、私は手持ち無沙汰で聞いていた。

「いやぁ、流石二代目! 相変わらずご名医ですなぁ!」

「いえいえ。まぁ、何はともあれ、娘さんも笑顔を見せてくれて、良かったです」

 大宮さんの御宅で交わされる言葉を、私たちは路地裏で聞いていた。どうやら無事、先生の案が効いたらしい。

 頭巾をしていない頭に夜風を感じながら、私は手にした提灯を手元に引き寄せる。

「それでは、私たちはこれで」

「はい。下男さんも、お気をつけて」

 別れの挨拶を済ませ、久蔵さんたちが私たちの方へとやって来た。人影は二つ。一人は久蔵さん。もう一人は、私が付けていた頭巾をかぶっている。

 そこにすかさず、先生が口を開いた。

「夜分遅くにすみませんでした。宗漢さん」

「いやいや。わしみたいなもんでも、役に立てて良かったですよ」

 そう言って、宗漢先生は笑いながら頭巾を外した。

 先生の妙案とは、単純明快。自分の信用できる医者、泊まりがけで江戸に来ていた宗漢先生に、大宮さんの娘さんを診てもらうというものだった。

 しかし、宗漢先生は見た目が、その、あまりよろしくない。

 そこでうちの先生は、久蔵さんの下男として宗漢先生を同行、診察を行ってもらうことにしたのだ。

「ですが、前田先生のようなご名医に下男をしていただくなんて……」

「なになに。わしの見てくれなんぞより、患者が元気になる方がよっぽど大事ですからな」

「本当に、ありがとうございます……」

 恐縮しきりの久蔵さんは、何度も何度も宗漢先生に頭を下げている。

「手足のむくみや腫れの有無を調べる『手足看法』、臓器のある部分を指で押して内臓の沈殿や動きを調べる『按診』、背骨の曲がりや肉付き、片寄りを診る『候旨』。どれも私が知らなかった知識です」

「なに。わしも本で勉強中。一緒に頑張りましょう」

「はいっ!」

 久蔵さんは宗漢先生に弟子入りし、一から勉強をすることになった。金銭的にまだ余裕のある久蔵さんの方から宗漢先生の元へ、週に一度通うのだという。その勉強に必要な本は、うちから借りてもらうということで、話はついていた。

 久蔵さんは宗漢先生から必要な医学の知識を得、宗漢先生は久蔵さんから勉強費をもらい、うちも家計が潤うという、大円満な解決となった。

 私は脳裏にどれ位の収入が入るか計算しながら、久蔵さんに話しかける。

「でも、良かったですね。大宮さんの娘さんも、元気になって」

「ええ、そうですね。ただ……」

「どうしたんですか?」

 言い淀む久蔵さんに、私は小首を傾げながら問いかける。

「いえ、娘さんが笑ってくれたのはいいんですが、前田先生は何故あれだけご名医なのに、褌を締めていないのかと。娘さんが笑ったのは、彼女がそれに気がついたからそうなんです」

「……」

 私は何も言えないまま、久蔵さんの視線の先を追う。そこにはうちの先生と楽しそうに話す、褌を締めていない宗漢先生の姿があった。

「あ、そういえば、大宮さんの番頭さんから聞いたんですが、どうも『相談屋』の旦那さんを探している方が、この付近にいらっしゃるそうですよ」

「先生を?」

 以前竹さんからも同じような話を聞いていたことを、私は思い出した。その時尋ね人は品川だったはずなので、どうやらこちらに近づいてきているらしい。

 私はその件を先生に伝える前に、宗漢先生と今日も『地本問屋』巡りをしようと話している先生をどう説教したものかと、頭を悩ませていた。

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