⑦
私は叫びそうになる自分の声を、歯と歯を必死に噛みあわせて、何とかこらえた。言うに事欠いて、先生はなんてことを言い始めるんだろう!
幇間とは、お酒の席などで芸を見せる芸人の事だ。
先生が言った幇間医者とはつまり、芸を見せる医者、患者の機嫌を取って気分をよくさせるという、歯に衣着せぬ言い方をすれば藪医者を示す言葉になる。
藪井先生が幇間医者かもしれないと私は事前に聞いていたが、まさか今この場で、しかも本人に向かって直接問いかけるとは思ってもみなかった。
冷や汗が止まらない中、私は藪井先生の表情を盗み見る。藪井先生は困ったように、苦笑いを浮かべていた。
「もしかして、お金の心配をされているのでしょうか? だとしたら、ご心配なく。店はこうして構えておりますが、悪戯に高い治療費を請求することはありませんよ。現に、下働きをする下男すら雇えない状況ですから」
「ええ、そうなんです。だからおかしいと思ったんですよ」
藪井先生から治療費の踏み倒し、値下げ交渉を疑われたうちの先生は、平然とした顔で頷いた。
「妻から、亀さんから聞いた話では、藪井先生は大宮さんの御宅から手ぶらでお戻りになられたとか。お医者様が薬箱も持たずに手ぶらで診察に訪れるというのは、おかしいのではないでしょうか?」
「……私の場合、紙入に薬を入れて持ち運んでおりますので」
「そうですね。まるで大宮さんの娘さんしか診るつもりがないように」
「何が、仰りたいんでしょうか?」
眉を寄せる藪井先生に向かって、うちの先生は人差し指と中指を立てた右手を差し出した。
「わたしは藪井先生の診察状況を聞いて、二通りの可能性があると考えました。一つ目は、藪井先生は大宮さんの娘さんが患っている原因がわかっており、そのための薬しか持っていく必要がない可能性。そして二つ目は、病気の原因が全くわからず、当てずっぽうで薬を持って行っている可能性」
右手を人差し指だけ立て、先生は噛むような口調で言葉を紡いでいく。
「一つ目の場合、病気の原因がわかっているのですから、藪井先生は大変なご名医ということになります。だとすると、失礼ですが、藪井先生の暮らしぶりにおかしな所があります」
「おかしな所?」
「藪井先生の家が、あまりにも質素過ぎるのです」
藪井先生の質問に、うちの先生は淀みなく答える。
「もしそれほどまでのご名医でしたら、大宮さんのご紹介で他の患者さんを診る機会が、俗な言い方をしてしまえば、稼ぎが増えるはずです」
「ですからそれは先程も申し上げた通り、私は高い治療費を請求していないからで――」
「そして一人しか診ることを想定していないから、薬箱ではなく紙入に入れれる薬だけしか持ち歩かないのですか?」
藪井先生の言葉にかぶせるように、うちの先生が言葉を重ねる。
「診る患者の数が増えるということは、その患者毎に薬が必要になることになります。多くの患者を抱えている先生なら、それに応じた薬の数を持ち歩かないといけません。ですが藪井先生は、この店にすら薬箱を置いていない。それだけ立派な薬箪笥があるにもかかわらず、です」
先生は立てた人差し指を藪井先生に向け、藪井先生とその後ろにある薬箪笥を射るように突き出した。
「この部屋には、医書のような『物之本』ではなく、まるで知識のなさを数で補おうとするかのように、薬の数だけが充実しています。本は買えないのに、薬はある。藪井先生が診ている患者は少ないのに、薬の種類が豊富なのは、ある特定の患者に対して、薬を総当りで処方すればどれかが正解に引っかかる、と考えているからではありませんか?」
気付けば先生の右手は中指が立てられており、うちの先生の指を、藪井先生は食い入るように見つめている。
「医者を開業するのに、特別な資格は必要ありません。ですが本を読めば、今江戸で主流となっている診察方法ぐらいわかります。基本的には、症状を患者に聞く『問診』、患部に触れてみて患者の反応から診断する『触診』、患者の目や唇、舌など顔色や挙動を見て診断する『望診』、呼吸音や動機、体臭から診断する『聞診』の四つで診察を行うそうです。しかし藪井先生は亀さんを診察した時、脈を測る『触診』までしか行っていませんでした」
藪井先生の顔色がみるみる悪くなっていく中、私は先生に問いかけた。
「でも、藪井先生が本当に幇間医者だったとして、何でこんな数の薬を集めたんですか? ただの幇間医者なら、適当な薬を処方して、大宮さんからもらうお金は薬以外のものに充てるんじゃないでしょうか?」
「それはきっと、ご両親の嘘を本当にするためですよ」
「両、親……?」
困惑する私を横目に、先生は藪井先生に視線を戻す。
「大宮の旦那さんを治療した藪井先生のご両親も、幇間医者だったんですよね?」
「あっ!」
私は先生が何を言おうとしているのか理解し、思わず声を上げてしまう。
そうだ。藪井先生は、大宮さんのかかりつけ医として二代目。大宮さんとは、先代からの付き合いがある。
「でも、先代も幇間医者だったとして、どうして大宮さんの信頼をそんなに勝ち得たんですか?」
「……たまたま父が処方した薬が、大宮さんのご病気に効いたんですよ」
そう言ったのは、薬箪笥の前で座り込んだ藪井先生だった。
「それから父は大宮さん、今の旦那さんのかかりつけ医になりました。今の今まで旦那さんは大きなご病気もなく、父を幇間医者だと気付かないまま、私たちにあの時の礼だと小遣いを渡しながら、これまで過ごされてきました。ですが父が死に、私はこのままではいけないと考えました。旦那さんからは二代目と言われていますが、私は医学の専門的な知識を父から受け継いでいません。そもそも、父から受け継ぐ知識なんて、元からありはしないんですけれども」
そう言って藪井先生は、自嘲気味に笑う。
「それでも、私は本物の医者になりたかった。父を本物の名医だと信じている旦那さんの気持ちと、旦那さんにかけてもらった期待を裏切りたくなかった。私としても、父には名医であって欲しかった。だから治療費のほとんどを、良く効くという『生薬屋』の薬を買い集めるのに使いました」
薬箪笥に頭をくっつけ、藪井先生はため息をついた。
「自分が幇間医者だって言うのは、わかっている。だから治療費も多くはもらわないし、他の患者も進んで診ようとはしませんでした。だって私は幇間医者で、藪医者で、だから……」
沈痛な面持ちで黙る藪井先生、いや、久蔵さんを、私は複雑な心境で見つめていた。大宮の旦那さんの期待に応えたいという気持ちは理解できるのだが、何故父親の偽りの名誉まで守ろうとしているのか、私には理解出来なかったからだ。
私の父は、私と母を捨てた人だ。父親という存在に対して、私はいい感情を持っていない。
そこまで考えて、私は頭を振った。
嫌な夢を久々に見たせいか、今日はどうにも考え方が否定的になっている。
「罪悪感を、ずっと抱えていたんですね?」
私に向かって発せられた言葉ではないにもかかわらず、先生の言葉で私の鼓動は跳ね上がった。
嫌な汗をかいている私をよそに、久蔵さんが先生に向かって、小さく頷く。
「でも今回、娘さんをどうすればいいのか、私にはわからなくて……。今更旦那さんに、自分の嘘を、どう伝えればいいのか」
「大丈夫ですよ。それについては、わたしに妙案があります」
頭を抱えてうずくまる久蔵さんに向かって、先生が見る人を安心させるような微笑みを浮かべた。その顔を見ていると、いつの間にか私の中に生まれたもやもやは、渦巻く雷雲が過ぎ去った快晴の空のように綺麗さっぱりなくなり、今私はとても晴れやかな気持ちになっている。
先生はその笑顔を向けたまま、久蔵さんへ問いかけた。
「『相談屋』って、ご存じないですか?」
「……先生。私たちの本職は『貸本屋』ですよ」
「亀さんは相変わらず細かいですねぇ」
「先生が大雑把過ぎるんですっ!」
やいのやいのと言い合う私たちの会話を、久蔵さんは呆けたように見上げていた。
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