⑤
「――と、言うことがあったんですよ。先生」
その日の晩。本を無断で購入したことを責めた後、私は大宮さんの所で聞いたことを話した。
今日の夕餉はわかめと山菜の味噌汁に、大根の煮付け。どれも熱々で美味しいのだが、うちの店が建つ深川は立地上、多数の川に囲まれている。中川や大川などの大きな川はここで竪川や大横川などと合流を繰り返し、江戸湾へと流れていくのだ。川には江戸湾へ出る船が数多く浮かんでおり、それを縛る縄も河川敷を探せばすぐに見つけることが出来る。
つまり私が何を言いたいのかというと、日が暮れると気温が下がりやすいこの店で食べる夕食は、すぐに冷めてしまうということだ。
新しく本を買う余裕が有るのなら火鉢を買わないかと、再度先生に打診しようとした所で、私は先生の様子がおかしいことに気がついた。
いつもなら本を捲っている左手で操る二膳の箸は、本を開かずに、それを昆虫めいた動きで回転させている。新しく買った本はすぐさま読みふける先生には珍しく、何か別のことを考えているように見えた。それでも先生の右手は、夕食を自分の口に運ぶのを忘れてはいない。
「亀さん。その大宮さんがかかりつけだというお医者様の場所、わかりますか?」
やがて夕食を食べ終えると、先生は神妙な顔をしながら私に向かってそうつぶやいた。
「えっと、大宮さんの所の番頭さんに聞けば、わかると思いますけど」
私は戸惑いながらも、何とかそう返す。見れば先生は既に草履を履き、貸出帳簿を捲っていた。大宮さんの住所を調べているのだろう。
「え、先生! 大宮さんの娘さんが病気な原因、わかったんですか?」
私は慌てて食事を口の中にかきこむと、先生と同じように草履を履き、台所で食器を先生の分も合わせて素早く洗う。
先生は目的の頁を見つけたのか、その箇所を指で三回なぞった後、帳簿を丁寧に閉じて、それを今日の夕餉中に読み終えた本の山の上に置いた。
「娘さんの病気の原因は、流石にわかりません」
「なら、どうしてそんなに慌てているんですか?」
先生が今から外出することを察した私は、火打石で提灯に明かりを灯す。江戸では夜間無灯火での出歩きが禁止されているので、提灯は必需品だ。
「病気の原因まではわかりませんが、娘さんがなかなか治らない原因の検討は付きましたので」
「え! 本当ですか?」
「九分九厘」
私が表に出るのを待って、先生が勝手口の戸を閉めた。私は提灯を、先生の手元に向ける。
「……それにしても、今回はやけに行動的ですね。いつもこれぐらい働いてくださればいいのに。それとも大宮さんの娘さんが、そんなに気になるんですか?」
険のある私の声に、先生は苦笑いを浮かべながら、首を振る。
「病気となると、人の命が関わりますからね。流石のわたしも、そうのんびりとはしていられませんよ」
「……そうですか」
日は完全に沈み、外は月明かりが微かに降り注いでいる。
闇に沈んでしまいそうな私とは対照的に、戸締まりを確認する先生の姿は、私が手にした提灯が暗闇からすくい上げるかのように、確かに照らし出されていた。
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