第一章 家見舞のその後に

 明け六つ(午前六時)を告げる鐘の音が鳴るより早く、私は店の扉を開けた。

 近くの井戸には朝食の仕度をするためか、桶に水を汲みに来た女性たちと、顔を洗いに来た男性や子供たちの姿が見える。朝餉のいい匂いが漂い始める中、湯屋に行く人たちの姿もちらほらと見受けられた。

 そんな中私は大きく息を吸い、この店の主であり、今頃二度寝を満喫しているであろう相手に向かって、怒鳴り声を上げる。

「いつまで寝てるつもりなんですか! いい加減起きてください、先生っ!」

 二階建ての住居を兼ねる表長屋に、私の声が響き渡った。その証拠だとでも言うかのように、二階の隙間から砂と埃がまばらに落ちてくる。

 私と先生が住んでいる家は、一階に商いをするために取り扱っている商品が所狭しと並べられており、二階にもその商品たちが所狭しと並べられていた。それが目下数ある私の悩みの一つであり、その悩みを作った張本人は、私の声が聞こえていないのか反応がない。

 私は苛立たちげに舌打ちをすると、二階に上がるため、店の中に入った。土間で草履を散らかすように脱ぎ、店の中へ足を踏み出すと、私の重さで木の床が軋みを上げる。

 そう。畳ではなく、木の床だ。

 本来畳があってしかるべき場所にそれはなく、商いを行うはずのそこは先生が自作した棚が、来るものを拒む城壁のように並んでいる。その棚に入っているのは、大切な商いの商品である、本だ。

 本。

 本、本、本、本。

 八百屋さんに野菜が並べられているように、私たちの店では本が並べられているのだ。ただしそれはお客様に見せる店棚というより、本たちがまるで着物を幾重にも重ねたようにしまわれているので、重量感を感じて、見る者を威圧するようで息苦しい。それだけ密にしまわれていれば、初見でどこにどんな本があるか検討が付くはずもなく、全くお客様に優しい作りになっていない。つまり、商いに適した商品の配置になっていないのだ。

 強烈な紙と墨の、本の匂いを感じながら、私は半畳もない棚の隙間を、本の森を縫うようにして、階段へと足を向ける。

 畳が一階に存在しないのも、一冊でも多く本を置くために、先生が取り払ってしまったからだ。その代わり床と棚は虫除け対策として楠で出来ており、防腐、防虫、防黴対策のために柿渋が塗られ、独特の光沢を放っている。

 本に優しい環境を作るのはいいのだが、一階には台所があり、食事もそこで取ることになっている。畳がないので、おかげで私は毎日冷たく、硬い床の上で食事をしなければならない。座布団を敷いても、流石にこたえる。しかし先生は全く気にした様子はなく、私が苦しんでいる中、いつもすまし顔で食事を取っていた。

 既に終えた今日の朝食のことを思い出し、私は余計に腹を立てながら、二階へと続く階段を上っていく。この階段すらも棚に改造されており、当然のごとく本が収められていた。

 木で出来た階段の下に本が敷き詰められている状態に等しいので、一歩登る度、板の軋んだ音の後、素足へいやに硬い感触が返ってくる。もうこの家に住んで五年以上経つのに、未だにこの感触に、私は慣れていなかった。

 二階に登ると、そこで私はようやく畳との再会を果たす。だが、いぐさの匂いに混じり、やはり濃厚な本の香りがした。

 二階はふすま一枚挟んで、階段に近い方が私、その奥が先生の部屋となっている。

 私の部屋にあるのは、自分の布団に、着物をしまうための箪笥と鏡。そしてちゃんと畳が敷いてある。この畳すら私が先生に直談判しなければ存在すら怪しかったのだから、末恐ろしい。更に恐ろしいのは、平然とした顔で私の部屋にも本がしまわれている棚が置かれていることだ。こればかりは私が居候の身であるため致し方ないのだが、こう寝ても覚めても本ばかりの生活というのは、正直気が滅入る。

 私はその原因を作った本馬鹿に物申すため、怒号とともにふすまを開け放つ。

「起きてください、先生っ!」

 部屋の中には、布団の代わりに本にまみれ、何故だか千両箱を大事に抱えた男が眠りこけていた。千両箱の中身は当然空であり、その中が小判で満たされているのなら、私はきっと神仏のように安らかな顔で先生の二度寝を許していたことだろう。

 私が先生の部屋に入った所で、ようやく彼は大きなあくびをしながら、目を覚ました。

「……おはようございます。亀(かめ)さん」

「おはようございます、じゃないですよ先生! 一体今何時だと思ってるんですかっ!」

「……何時って、まだ明け六つ半(午前七時)にもなっていないじゃないですか」

 そう言って先生は、本で出来た風呂の中から這い出るように、私の方へと体を起こした。

 先生の部屋にはもはや棚すら存在せず、本でぎっしりと埋め尽くされている。そのくせ換気用の窓は開閉出来るようになっていたり、今まで体を覆っていた本に折り目一つ付けていなかったりと、部屋の主の性格が繊細なのかずぼらなのか、はっきりしない。

 そんな先生は、一目で身の丈に合っていないとわかる群青色を基調とした縞模様の着物を着崩し、髪の毛も寝ぐせだらけ。どう見ても人前に出るような姿ではなく、とても商人(あきんど)とは思えない。そんな彼はまだ寝足りないのか、眠そうに目をこすりながら、大きなあくびをした。

「こんな朝っぱらから起きなくたって、今頃江戸の長屋という長屋が、朝食の真っ最中でしょうに。もう少し寝ててもいいじゃありませんか」

「そういうことは、ご自分で起きてから言ってくださいっ!」

 私はそう言いながら、先生を睨みつける。

「それと、うちは『貸本屋』、商人なんですから、もう少し身なりにも気を使ってくださいよ」

「それだったら、亀さんの方こそ、ご自分にあった格好をしたらどうなんですか?」

「……誰のせいだと思っているんですが、誰のっ!」

 怒りに震えながらも、私は自分の服装を見下ろした。

 私の着物は、派手な紅を下地に、金で大きな亀が描かれている。自分の部屋にある鏡を覗きこめば、歌舞伎役者もかくやといった若衆姿の髪型をした私の顔が写ることだろう。自分でも十分自覚しているが、随分と派手な格好をしている。

 派手な格好は自分の店の宣伝、という意味合いもあるのだが、それだけではない。『貸本屋』のお得意様には、文字の読める商人、参勤交代でやって来た武士だけでなく、暇を持て余した色町の遊女たちも上得意。彼女たちに受けがいい格好をする必要も、『貸本屋』にはあるのだ。

 とはいえ、遊女と商売をすると、色町に入り浸ると、問題も起きやすい。私の個人的な感情の問題もあり、彼女たちを良くは思っていなかった。

 だが、

「先生がもう少し真面目に働いてくだされば、私がこんな格好をして日本堤まで行く必要はないんですけどねっ!」

「そうは言いますけど、亀さん。わたしは本を読むので忙しいんです。それに自分の本を貸すなんて、貸してる間にその本が読みたくなったら、どうするんですか?」

「『貸本屋』を営んでおきながら、何を馬鹿なことを言っているんですかっ!」

「聞けば、名古屋に大惣という大量の蔵書を持つ『貸本屋』があるみたいじゃないですか。わたし、あれを目指したいんですよねぇ」

「大野屋惣八のことですか? あれはきちんと、本を貸・し・て・い・る、から成り立っているんです! 先生のように、本を買って読むだけじゃないんですよっ!」

 もはや語るまでもないかもしれないが、『貸本屋』の主がまさかの本を貸し渋るという、『貸本屋』の存在そのものを否定するような先生の思考と行動原理のため、うちの家計は常に火の車寸前なのだ。

 この家が先生の持ち家ということで、店賃の心配がない。それはいい。それだけが救いなのだが、人間働きもせず暮らすことなんてそうそう出来やしない。生きている以上、食べるものも着るものも必要だ。嗜好品、娯楽だってお金がかかる。

 そう、娯楽。

 既に語っているようなものだが、先生の娯楽は本を読むことであり、また集めることでもあった。その結果が、この家であり、この店の評判にもつながっている。

「店を構えているのに先生が本を貸さないせいで、近所じゃこの店は『貸さない本屋』だから、略して『貸本屋』だなんて言われてるんですよ!」

「あはは、言い得て妙ですね」

「何笑ってるんですかっ!」

 一度頭をかち割ってやりたい気分になるものの、そんなことを実行できるはずもなく、私は今日も一人で稼ぎに行かなくてはならない。

「……それで、荷の方は出来てるんですか?」

「ええ、出来てますよ」

 そう言って先生は、私に小さな棚を差し出した。その棚は縄で肩から背負えるように細工されており、布で覆われているため、運んでいる途中で中身が落ちる心配もない。

 中身とは無論、本のことだ。

『貸本屋』は本を担いで歩き、貸して見料を得る。

 先生の右手から私は両手で今日貸して周る本を受け取ると、その重さに辟易しつつ、胡乱げにそれを見つめた。

「見料は、本を買った三分の一から六分の一ですから、少なく見積もっても同じ本を四人目に貸して、ようやくうちの店は利益を得ることが出来るんですよ? 本当にこの荷(本)で、今日は大丈夫なんですか?」

「大丈夫ですよ。今日は皆さん、その本が読みたくなるはずですから」

『貸本屋』は、お客様が読みたい本を貸す商売だ。読みたい本とは、自分の好きな作家の新作であったり、続きの気になる本という場合が大半だ。

 そうした本は大概が新品、封が切られていない状態となる。その封を自分が切りたい、最初に読みたいがために『貸本屋』を利用するお客様もいるのだ。いるのだが、うちの場合最初に封を切るの人は決まっているため、そうした需要には対応できない。だから別の需要に対応することで、うちはお得意様を増やしている。

 別の需要とはつまり、もう一度読み返したくなる本のことだ。

 そもそも、貸し出す本は一通り地域やお客様に読み回されると、その本は読み飽きてしまい、借り手がつかなくなる。そうなった本は『貸本屋』同士で本の交換をしたり、貸本を兼業する行商人に安く卸したりして、元の『貸本屋』の手から離れるのが一般的。なのだが、うちには先生がいる。本は死んでも手放そうとしない。すると自然に本の量は増えていき、一度読んだ本を読み直したいと考えるお客様の需要に対応することが出来るのだ。

 しかも先生はそれを、日単位、人単位、本単位で割り出してみせる。読み返したいだなんて、そんな人間の気まぐれを、先生はぴたりと一致させてみせるのだ。もはや神業以外の何物でもないし、それが無ければうちはとっくに潰れている。

 まぁ、他にもうちだけの需要が、もう一つだけあるといえばあるのだが。

「それでは、私はそろそろ出発しますので」

「おや? もう行くのですか? まだ朝五つ(午前八時)の鐘も鳴ってないのに」

 荷を担ぐ私を、先生は不思議そうに見上げる。

「……何処かの誰かさんとは違って、私は神業みたいなこと出来ませんからね。こっちは地道に駆けずり回って、お得意様を増やすしかないんですよ」

 うちのお得意様は、この店が建っている深川界隈が中心となる。ご近所ということもあり、ご贔屓にしてもらっている部分もあるのだろう。

 だが私としては、先生の力に頼るだけではなく、自分でも稼ぎを出せるよう荷を担いで亀戸、浅草、麻布まで足を伸ばしていた。先生を疑っているわけではないが、この神業も何時かは外れる日が来るかもしれない。そうなった場合、上方(京都)から来た自分を拾ってくれた先生にご恩返しがしたいと、私は自分で稼ぐ方法を日夜模索しているのだ。

「亀さんは真面目ですねぇ。宵越しの銭は持たないのが、江戸っ子ってやつですよぉ」

 ……この胸中を打ち明ける日は、二度と来ないかもしれないけれど。

 自分の頬が歪んだのを実感していると、先生は私にあるものを差し出した。

「でも、行くならこれも忘れちゃ駄目ですよ」

 それは、この店の旗印である木彫で掘った、『亀』の人形。人形には紐が通してあり、手から下げて店の宣伝をするのだ。しかし、この人形の役割は、それだけではなかった。

 私と先生との間で、もし何か口に出して言えないような問題が起きた場合、これを店に置いて外出する取り決めになっている。過去に一度遊女がらみで問題が起きた時、そういう仕組みを先生と私の間で作ったのだ。

 私がその人形を受け取ると、先生はだらしなく相好を崩した。

「それを持って亀さんが無事返ってくるのを、わたしは本を読みながら待ってますねぇ」

「……いえ、先生。仕事してください。誰かがお店に本を借りに来るかもしれないんですから」

「そんな奇特な方、江戸にいますかね?」

「ご自分でおっしゃらないでくださいっ!」

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