貸さない本屋の相談屋

メグリくくる

序章

物語を始める前に

 江戸時代の庶民の娯楽と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?

 歌舞伎と思う人もいれば、相撲と思う人もいるだろうし、今でも嗜好品として残るお酒や煙草を思い浮かべる人もいるだろう。中にはあまりよろしくないけれども、賭博と考える人もいるかもしれない。

 しかし江戸時代には、読書も立派な娯楽として成立していた。

 そもそも、日本で書物が商品として流通するようになったのは、江戸時代からだ。

 印刷そのものは、既に称徳天皇の神護景雲四年(七七〇年)に、日本で経文を印刷した証拠が残っている。ただしそうした技術は主に寺社に伝わっているだけで、民間で印刷が行われるようになったのは文禄・慶長の役の後。金属に字形を刻み、それに墨をつけて何度も印刷できるようにした、銅活字と印刷機が日本に持ち帰られてからになる。

 やがてそれらの技術が京都の富商に伝わり、角倉素庵が本阿弥光悦の協力を得て、『嵯峨本』、または『角倉本』や『光悦本』と呼ばれる、豪華華麗な絵入り本が作られた。

 だが、日本のような漢字文化圏では文字数が多く、更に平仮名まで含めると掘る活字の数が膨大な量となってしまう。そうした手間が掛かり過ぎるといった様な理由から、日本ではすぐに活字を用いた印刷は定着せず、活字が主流となるのは明治になってからだ。

 ともあれ江戸時代中期以降では、一枚の木板に文字や絵を彫り、紙を当てて印刷する木版印刷が主流となった。

 そうした木版印刷で刷られた商品としての『本』は、大きく次の二つに別けられる。

 一つは実用書、教養書として書かれた『物之本』。

 もう一つは、物語や挿絵中心の読み物として書かれた『娯楽本』だ。

『物之本』とは物事の根本を意味した熟語で、そこから派生して、物事の根本や規範を記した書籍という意味になった。そうした仏書、儒書、史書、軍記、伝記、医書などが書かれた書物は『書物問屋』で売買されていた。左右の書棚にたくさんの書物が平積みされている店を武士が訪れ、番頭が相手をしている、といった風俗画も残っている。『物之本』は、客のほうから出向いて買い求めるものだった。

 それに対して、『娯楽本』は文字通り娯楽、時間つぶしのための読み物という位置づけで、一度読めば満足し、読者にしてみればわざわざ買い求めるものではなかった。

 実際江戸時代の書物は『娯楽本』であっても一冊の値段が、現在の一万五千円から二万円程したというのだから、そう簡単に庶民が買い求めるようなものではない。

 では何故、江戸時代に読書が娯楽として成立したのだろうか?

 そこで登場するのが、『貸本屋』という職業である。

『貸本屋』とはその名の通り、本を貸すことで利益を得る商売のことだ。

『貸本屋』は版元(出版社)から本を仕入れ、お得意様を回り、新刷の『娯楽本』を見せて、希望があれば日数を限って置いてくる。見料(貸し賃)は、盆や暮れにまとめて請求したそうだ。江戸の『貸本屋』には一人で百人以上のお得意様がいたというのだから、その需要の高さも伺えることだろう。

 しかし、いつの世の中にも、分野の差はあれど、働かない者というものは存在する。

『貸本屋』の主人が『愛書家』だと言えば、何がどうなるか。

 そんな主人を持った奉公人が、如何に苦労するか。

 

 これはそんな二人に持ち込まれる、相談事の記録である。

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