第37話 彼の人の正体

 草の一本も踏まれたことのないような原生の森を、五歳ほどの幼児が迷いない足取りで進んでいく。

 その背後には、子供の身の丈の倍はありそうな大男が、憮然とした表情で着いてきている。

 切り込みの入ったズボンの尻から覗くもふもふの狐しっぽが揺れるたびに、男は眉を顰めてしまう。

 ……この子供は、一体何者なのだろうか。

 人語を喋る、人でない何か。

 まるでおとぎ話に迷い込んだようだ。

 呼吸が重い。水分をたっぷり含んだ森の濃い空気に、溺れそうになる。

 同じような緑の景色にすっかり方向感覚が失せた頃、急に視界が拓けた。木漏れ日のスポットライトを浴びて、一軒の丸太小屋が浮かび上がる。

 狐の子供はぴこぴこと大きな尻尾を揺らし、その小屋へと走った。


「お師様! 連れてきましたよ!」


 ノックもせずに、豪快にドアを開ける。

 男は警戒しながら、内部を覗き込んだ。

 そこに見えたのは、作業テーブルに置かれた水晶玉を囲む一組の男女。一人は短い薄茶色の髪の痩身の青年。彫りの深い横顔は、女神像かくやという造形美だ。

 そしてもう一人。肩先まで伸びた、すこし癖のあるオレンジブロンドの女性は……!


「レナロッテ!」


 男は叫んで小屋に飛び込んだ。

 夢のようだ。まさか、探し人が本当にいるなんて。


「レナロッテ! 生きていたのか……!」


 驚きに青い目を大きく見開く彼女に、男は両手を広げて駆け寄って――


「わぁっ!」


 ――ガバっと抱きしめる前に、バックステップでレナロッテに躱された。空振った男は、勢い余って両手で自分を抱きしめる。


「なんで逃げるのさ?」


 感動の再会を見守っていたノノが非難がましくレナロッテを見上げると、


「いや、思ってもないことされたから……」


 彼女はバツが悪そうに頬を掻いてから、抱擁を回避された憐れな男に目を向ける。


「あの、何故貴方がここにいるのでしょう?」


 心底不思議そうに首を傾げる。


「ゲオルグ隊長」


「へ?」


 レナロッテの言葉に、ノノは三角耳をピンっと立てた。


「あれ? こいつ、ブルーノじゃないの?」


 男を指差す子狐に、女騎士は首を振る。


「違う。ブルーノはもっと……」


「もっと?」


「……」


 何か失礼なことを言いかけたらしく、レナロッテは無言で視線を逸した。


「で、結局、こいつ誰なの?」


「私の所属していた部隊の隊長だ」


「ああ、レナより強いって言ってた鬼神ね」


 ノノはかつて彼女と交わした会話を思い出す。狐の子はまじまじと王国騎士団の部隊長を眺め、


「本当にオーガっぽい」


 余計なことを言った。


「それで、なんで鬼隊長がここにいるの?」


「……それはこっちの台詞だ」


 失礼な狐の子供に、人間の大人が口を挟む。


「ここはどこだ? 何故、こんなところにレナロッテがいる? お前達は何者なんだ?」


 ゲオルグは矢継ぎ早に詰問しながら、剣の柄に手をかける。答えによっては、この場を制圧する気だろう。


「た、隊長……」


 緊張にゴクリと喉を鳴らすレナロッテの横で、尻尾をボワボワに膨らませたノノが威嚇の唸りを上げる。

 一触即発の張り詰めた空気を解いたのは……、


「あの〜」


 フォリウムののほほんとした声だった。


「そろそろお昼なのでご飯にしませんか? 積もる話は食事をしながらでもいいでしょう」


 魔法使いの場違いに柔らかな口調に毒気を抜かれて、ゲオルグは剣の柄から手を下ろす。その様子に微笑むと、フォリウムは弟子を振り返った。


「ノノ、食事の用意を。ゲオルグさんの席も作ってください」


「はーい」


 素直に返事してから、ノノは「あっ」と叫んだ。


「パンがありません」


 結局、小麦粉は買いそびれてしまっていた。


 ……この後、しばらく魔法使い家の食卓は、主食が蒸かし芋になったという……。

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