第27話「……私が死んだら、エリアスはどうするかしら」
翌日もピアが二回とも食事を持ってきた。そして、サリタと色々と話をして戻っていく。人手が足りないのはエドガルドも十分承知していることだとして、最低限の仕事だけで構わないという達しがあったらしい。ピアは嬉しそうだった。
サリタの髪色が白くなっていくのを、ピアは大変心配してくれていた。染粉が落ちてきているだけなのだが、急速に白髪が増えているように見えるらしい。しきりに「かわいそうに」とピアは嘆いていた。
サリタの歌声は外までは聞こえていないらしい。堅牢な造りなのだろう。
考える時間だけはたっぷりある。サリタは毛布に包まりながら二度目の脱出について考えていた。
「ピアは鍵を持っていないから、やっぱりエドガルド様か侯爵が来るのを待つしかないわよね」
人好きのする中年メイドを巻き込むわけにはいかない、とサリタは考える。二番目の息子のところに子どもが生まれるため、ピアはそろそろ「おばあちゃん」になるのだ。朝、嬉しそうに話してくれたのだ。
「じゃあ、二人が来るのは、侯爵令嬢に初潮が来たときと考えるのが自然よねぇ。あの二人が様子を見に来ることなんてないだろうし」
侯爵令嬢がいくつなのかはわからないが、それくらいの年齢なのだろう。娘が聖女の条件を満たすことを心待ちにしている侯爵の姿を思い浮かべ、サリタは「気持ち悪っ」と本音を零す。ピアが孫を心待ちにしているのとは全く質が違う。サリタは溜め息をつく。
「侯爵令嬢の初潮が来たあと、どうするんだろう? 私の純潔を奪うか、殺すか……そのあとラウラ様とカルド伯爵が窮地に立たされることだけは間違いないわよね。聖女を偽証した罪っていうことは、死罪かしら?」
純真なラウラの姿を思い浮かべて「それはかわいそうだわ」とサリタは呟く。騙されて担がれているラウラに、責任を押し付けるようなことがあってはいけない。罪の意識すらない幼子なのだ。
「最悪の場合、私はここから出られないままに陵辱されて殺されるということよねぇ」
サリタは四方をぼんやりと眺め、「それは嫌だな」と嘆く。材木置き場で陵辱されるより、花畑で殺されるより、牢屋でひっそりと死を迎えることのほうが嫌だ。エリアスの仮定通りだとしたら、恨んで憎んで立派な『瘴気の澱』になってしまいそうだ。それだけは避けたい。
大人しく辱められるのを待ち、男が牢を出るときに逃げ出すしかない。しかし、辱められる前に殺されてしまったり、脱走に失敗して殺されてしまったりする可能性もある。
「……私が死んだら、エリアスはどうするかしら」
「聖教会すべてを敵に回して、この国を滅ぼすだろうね」
「えぇ? そんなに?」
「それほどの力を持っている男だよ、彼は」
黒い壁に、その白銀の毛は非常に目立つ。サリタは目を丸くして、そのウサギを見つめる。
「ウェールス!?」
「やあ、サリタ。砕いた魔石の牢屋かぁ。よく考えたねぇ」
エリアスの聖獣ウェールスは、長い耳をひくひくさせながらあたりを見回す。サリタは慌てて鉄格子のほうへと駆け寄る。
「魔石は聖なる力を阻む素材らしいね。だから、エリアスが感知できないわけだ」
「ウェールス、ブロテキビの畑よ! たくさん人が眠っているの! 畑に聖水をまいて、弔わなきゃ! あの飴玉が作れないようにしなくちゃ!」
「あぁ、うん、やってるよ」
ウサギは鉄格子の扉のそばにやってくる。
「今ね、エリアスがね、ブロテ侯爵家の敷地内に生えてる『瘴気の澱』まみれのブロテキビを燃やして、聖水かけて鎮火させてる」
「エリアスが? それなら、良かった……」
ホッと胸を撫で下ろしながら、サリタはウェールスを見下ろす。
「助けてちょうだい、って言わないの?」
「助けてほしいけど、今、そんな大事になっているのなら……」
バン、と大きな音が階段のほうから響いてきた。サリタはウェールスを鉄格子の間から招き入れ、一緒に毛布の中へと潜り込む。
カツカツと音をさせながら階段を下りてきたのは、カンテラを持ったエドガルドだ。どうやら彼の耳にも、エリアスの所業は伝わってきたらしい。
「……サリタ様」
エドガルドに低い声で呼ばれ、サリタは眠い目をこすりながら「もう朝ですか?」と起き上がる。もちろん演技だ。
「あなたが情報を漏らしたのではないのですか?」
「情報? 何? もう朝なのですか?」
「まぁ、あなたが聖教会と連絡を取る手段はないはず……ということは、あれは勇者の判断……」
エドガルドはサリタの「何も知りません」という表情を信じたらしく、何事かぶつぶつと言いながら歩き回っている。エドガルドが鍵を持っていればウェールスを使って奪うのだが、鍵束を目視していないため確信が持てない。
「勇者? エリアスが、どうしたのですか?」
「ただの色狂いだと思っていましたが、状況を読むことには長けているようですね、あなたの勇者は」
「待って。あれは私の勇者ではありません。断じて。そこだけは訂正させてください。私は亡き夫を愛していますから」
エドガルドが挑発に乗ってくるかどうかは、賭けだ。冷静さを欠いている今なら、乗ってくる可能性が高いとサリタは踏んだのだ。
「……愛している、ですって?」
「ええ。エドガルド様が仰る通り、とても幸せな結婚生活でした。夫は私に愛と自由を与えてくださったんですもの」
「ベルトラン殿が愛していたのは、あなたではありません! 真に彼が愛していたのは――」
「ええ、私でしょう?」
「お黙りなさい! 薄汚いアバズレが!」
サリタは目を丸くする。エドガルドからそのような汚い暴言を聞くのは初めてだ。冷静沈着で厳格な男がついに本音を零したのだ。
「あの清らかで美しく聡明なベルトラン殿が、どうして、知性のかけらもないあなたなんかを妻としたのか! どんな手を使って、ベルトラン殿を籠絡したのです!? 金ですか? 権力ですか? 聖女の夫には、どんな名誉が与えられるというのです!? ベルトラン殿は、あなたの何を欲したのですか!?」
「何って……心?」
「そんな馬鹿なことがあるわけないでしょう! 粗野で粗暴な色狂い、あなたはベルトラン殿より勇者のほうがお似合いじゃないですか!」
エドガルドからそんなふうに思われていたことには驚いたが、彼の本質を知った今では納得もできる。彼が恋をしていた男が妻として選んだのは、似つかわしくない女だったのだ。なぜ、と疑問に思うのも無理はない。
もちろん、心外ではある。長年の恋心も消えてなくなるくらいの暴言だ。
「だから、エドガルド様も権力を欲したのですか?」
「……黙りなさい」
ベルトランが権力や名誉を欲したと勘違いしたため、エドガルドはそれらを持っている女と結婚した。権力と名誉を手に入れ、ベルトランに与えようとしたのだ。
「それで、夫は、喜びましたか?」
「……黙れ」
そんなはずはないだろう、とサリタは確信している。ベルトランとは真の意味での「愛」のない夫婦だったのだろうが、夫の考え方がわからないほど希薄な関係であったわけでもない。
夫なら、きっとエドガルドの結婚を素直に祝福しただろう。「結婚はいいですよ」「毎日が充実しています」なんて余計な一言を加えたかもしれない。友人としてなのか、恋人としてなのかはわからないが。
「だから、奥様を殺したのですか?」
「黙れ、黙れ、黙れ」
「必要がなくなったら、私も殺しますか? 愛した男の妻ですものね、憎くて憎くてたまらないでしょう?」
「黙れと! 言っているだろう!」
ガシャン、とエドガルドは鉄格子にカンテラを投げつける。ガラス片が飛び散り、火がぼとりぼとりと落ちる。
そうして、とうとうエドガルドは、懐から鍵を取り出して、牢屋の扉を開けた。
「殺したいほどに憎んでいるとも! ベルトラン殿を奪ったお前を! ベルトラン殿の最期を看取ったお前を! 私には許されなかったのに! 聖水を、祈りを、捧げることを許されたお前を! お前を! お前を!!」
血走った憎悪の瞳と、怨嗟の言葉がサリタに向けられる。サリタの首に、エドガルドは手を伸ばす。枯れて皮と骨しかない手であっても、嫉妬に狂った男の力がどれほどのものかはわからない。
サリタは迷うことなく、隠し持っていた木箱の板をエドガルドの横っ面に叩きつける。毛布の中に、護身用として忍ばせていたのだ。
不意をつかれてよろめいたエドガルドの肩を再度木の板で叩きつけ、サリタはそのまま彼に馬乗りになる。そうして、さっさと
「なぜ、ベルトラン殿はお前なんかを! 私なら、私なら……!」
喚くエドガルドを見下ろして、サリタは溜め息をつく。
「夫は、ベルトランは敬虔な信徒だった。私と結婚したのは、ただの信仰心よ。私は聖母神の代わりに愛されていただけ」
「私は、私は……ベルトラン殿の、そばにいられるだけで、良かったのに……」
エドガルドはサリタとエリアスがお似合いだと言った。サリタは、エドガルドとベルトランは割とお似合いだったのだろうと思う。
泣きじゃくるエドガルドを横目で見ながら、ひょこひょことウェールスが扉へと向かう。
「か弱い老人に酷いことするねぇ、サリタも」
「拉致監禁と比べたらどうってことないでしょ」
木の板を持ったまま、サリタはウェールスとともに階段を上る。聖女宮に戻ってこそ、脱走成功と言えるのだ。道のりはまだ遠い。
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