第21話「一緒に、ブロテ領に来てくれないかな? 僕の妻として」

 六国大陸の六国共通の国教となっているのが、聖母神ラプルスタを唯一神と崇める聖六国教会だ。六国大陸が『瘴気の澱』に覆われていた遠い昔、ラプルスタがそれを祓って六つの国を築き、各国に聖獣を与えたとされている。勇者と聖女はその聖なる能力を受け継ぐものとして、聖教会から『瘴気の澱』を祓う役目を授けられる。

 そう、サリタは学んだ。

 なぜ六国大陸が『瘴気の澱』に覆われていたのかはわからない。『瘴気の澱』がどうやって生まれるのかもわからない。

 エリアスの言う通り、恨みを持つ死者から『瘴気の澱』が発生するのであれば、聖典に「恨まず生きよ」「すべてを許して死ぬべし」などという教えを書き加えることができるのではないか――。

 サリタはそこで考えるのをやめた。恨まずに生きることもすべてを許して死ぬことも、信徒たちに強制的に背負わせるべきことではない。ただ『瘴気の澱』をすべてなくしてしまえる方法があるなら、それを知りたいと願うだけだ。


 体調の良くなったラウラに白の聖女服を着せながら、サリタは目を細める。ラウラの小さな体に合うように作られた聖なる衣服は、歩くたびに銀色の刺繍がキラキラと輝いて可愛らしい。数えるほどしか着たことがない聖女服を見て、女官たちは目を潤ませている。


「大聖母会に出られるほど、お元気になられて……!」

「あぁ、本当にご立派になられて……!」

「大げさだよー、ただちょっと神殿に向かうだけじゃん」


 一ヶ月前までは「ちょっと神殿に向かう」こと自体ができなかったのだ。ドロレスをはじめ、女官たちが涙を浮かべるのも無理はない。


「ラウラ様、決して何も口にされませんように。お父上からの差し入れも、他の信徒の方、貴族の方からの差し入れも、一旦聖女宮に持ち帰ってくださいませ。私が一度確認をしてからでないと、食べてはいけません」

「えぇ? サリィは一緒に来てくれないの?」

「はい。ドロレス様と勇者様がそばにいてくださいますからね」

「あ、そっか、勇者様!」


 エリアスはラウラを見捨てるような男ではない。偽の聖女だと知っていても、彼女の命を危険に晒すような勇者ではない。最初から最後まで、ラウラのそばにいてくれるだろう。

 聖女宮の門の前で来客を告げる鈴の音が聞こえる。「勇者様だ!」とラウラは満面の笑みを浮かべたが、女官が持ってきたのはサリタ宛ての手紙であった。

 送り主の名前は書かれていない。扉番をしている聖騎士に直接手渡したのだろう。だが、宛名の美しい文字を見て、サリタはげんなりする。

 誰もいない廊下で開封すると、案の定ロランド・バルデスからの愛の言葉が散りばめられた手紙――デートの誘いであった。要約すると「今日の夕刻、西二番街のカフェの三階、奥の部屋で待つ」と書いてある。レグロとのデートで使ったカフェだ。これを絶好の機会と考えるか、絶望と考えるか。

 サリタは溜め息を一つついたあとで、「何を着ていこうかしら」と思案する。彼女は、ロランドと会うことをブロテ侯爵に近づく絶好の機会と捉えたのだ。




 念入りに染粉を塗り込み、きちんと眼鏡と首巻きを身に着けて、夕方前ではあるがサリタは聖女宮を出る。大聖母会が行なわれている神殿を横目に、多くの人々とすれ違いながら城下へと向かう。もちろん、先代聖女サリタだとは誰にも気づかれない。

 大聖母会のある日は、信徒たちは皆神殿へと向かうため、商店や飲食店はほとんどが休業している。しかし、レグロと一緒に行ったカフェは「休業」の看板が出ているものの、店内の明かりがついている。給仕人はいないが、扉に鍵はかかっていない。


「……怪しい」


 だが、入室しないという選択肢はない。サリタは良い匂いのするカフェの階段を登り、三階の奥の部屋を目指す。

 今頃、ロランドはブロテ侯爵と大聖母会に出席しているだろう。先に部屋の中に怪しいところがないかどうか確認しておきたかったのだ。

 奥の部屋にはもちろん鍵がかかっている。サリタは左腕の金色のヘビを撫で、「アンギス」と呼ぶ。聖獣は紅玉のような瞳を瞬かせたあと、鍵穴に舌を突っ込んで、サリタの指示どおりに扉の鍵を開けた。「ありがとう」と頭を撫でると、聖獣はまた目を閉じて眠りにつく。

 小ぢんまりとした部屋に、テーブルと椅子が六脚並んでいる。会食をするための個室で間違いないだろう。壁際にはソファもある。出入り口の他にもう一つ扉がある。給仕室へと続いているのだろうかと開けようとしたとき、声が響いた。


「そちらで待っていて欲しいとは書いていないよ、僕」


 振り向くと、先日階下のカフェですれ違った青年が扉のあたりに立っている。ブロテ侯爵の息子ロランド・バルデスだ。


「随分と早かったね」

「バルデス様も。まだ大聖母会は終わっていないのではありませんか?」

「うん。でも、僕は候爵ほど熱心な信徒ではないから」


 その物言いに、父と子の微妙な距離感を感じ取る。仲はさほど良くないのかもしれない。

 ロランドはサリタのために椅子を引き、座らせる。すると、どこからともなく甘い匂いが漂ってきて、給仕係が香茶とケーキをテーブルに置いた。給仕係が去ると、ロランドが器用な手付きでケーキを切り分け始める。


「……慣れていらっしゃいますね」

「サリィさんもでしょう? あの日すれ違ったとき、ここのカフェでは作られていない、甘い焼き菓子の匂いがしたから」

「サリィ、で構いませんよ。菓子作りは大好きです」

「やっぱり? あ、僕のこともロランドでいいよ。ちなみにこれ、僕が焼いたんだ」


 ケーキを焼く貴族を、サリタは見たことがない。貴族は子どもであっても厨房には立ち入ることがないものだ。ロランドが初めてだ。


「歳が離れた妹がいてね、甘いものが大好きなんだ。いろんな菓子を作るようになったら、いつの間にか、家にいる料理人よりも菓子に詳しくなってしまったよ」


 そう柔らかな笑みを浮かべながら、ロランドはふわふわのケーキに白く泡立てたホイップとベリー系のジャムを添える。サリタが思わず「美味しそう」と呟くと、ロランドは照れたように破顔した。


「美味しいと思うよ。どうぞ、召し上がれ」

「いただきます」


 サリタは早速ケーキを口に運ぶ。悪い気配は全くない。あの黒い小瓶もない。サリタの反応をじぃっと見つめているロランドは、おそらくは悪い人間ではないのだろうと判断した。


「……美味しい。香茶がほんのり香りますね」

「そう。ちょっと濃い目に煮出して、生地に混ぜるんだ」

「この香茶とも合いますね」

「同じ茶葉を使っているからね。別の茶葉でも構わなかったんだけど、まぁ、合わせたほうが茶葉の良さがわかると思って」

「統一感があって素敵です」


 ロランドは嬉しそうに笑う。おそらく、彼のこの趣味を理解する人間は周りにはいないのだろう。サリタはロランドが自分に興味を持った理由を、何となく理解する。


「ケーキにはすべてブロテ領のものを使っているんだ。小麦に砂糖に卵に茶葉。このカフェで売られているものもそう。香茶用のこの砂糖もブロテキビから作られているんだよ」

「そうだったのですか。道理で美味しいのですね。ブロテ領は領土が広く暖かいですから、農作物がよく育つのでしょう」

「そう。サリィは暖かいところは嫌い?」

「いえ、好きですよ」

「なら、良かった」


 しまった、とサリタは冷や汗をかく。ロランドから嫌われなければならなかったのだが、不思議と打ち解けてしまっている。求婚を断りづらい状況だ。


「一緒に、ブロテ領に来てくれないかな? 僕の妻として」


 ロランドの瞳がキラキラと輝いている。純粋な青年なのだろう。身分もわからない女を妻に迎えたいと言うのだから。そう、ロランドが望むのは「妻」であり「愛人」ではない。誠実な青年を騙すのは気が引けるものだ。


「ロランド。私はあなたと結婚できません」

「どうして? 君が平民だから? 未亡人だから? 僕は気にしないよ」

「候爵は何と仰るか」

「候爵も気にしないよ。だって、僕、妾腹の次男だから家督は継げないんだ。兄の補佐をすることを期待されているわけでもないし、妹ほど頭も良くはない。ブロテ侯爵家に名を連ねてはいるけれど、僕は侯爵家の人間じゃないんだ」


 父子の間の微妙な壁の理由を、サリタは知る。愛人の子だから、貴族らしからぬ振る舞いも許されてきたのだろう。期待されていないから、侯爵家が彼の結婚相手を探すようなこともないのだろう。

「侯爵家の人間じゃない」と本人が言うのだから、女官が求婚を断るという壁は決して高くない。誰かから咎められることもないだろう。

 サリタは溜め息を一つ零す。


「ロランド。私ではあなたの孤独を埋めることはできません」

「そんなこと、望んでいないよ。ただ、そばにいてくれるだけで構わないんだ」


 そばにいるだけで構わない、という言葉を、サリタは心底憎んでいる。ベルトランがよく使っていた言葉だった。だからこそ、そばにいるだけでいいという関係が、健全な夫婦となるものではないと、よく知っている。


「ごめんなさい、ロランド」

「そっか……僕じゃダメか。こちらこそごめんね。こんな話のあとだから、ケーキは美味しくないよね。残しても構わないよ」

「ダメ。ケーキは食べます。すごく美味しいもの」


 サリタの言葉に、ロランドは寂しそうに微笑んだ。エリアスのようにしつこくない、普通の青年だ。大変好ましい。サリタは彼の前途が輝かしいものであるように祈りたくて仕方がない。


「……ごめん、サリィ……もてなしておいて、ちょっと、眠く」


 ガン、とテーブルに頭を打ち付けて、ロランドは突然意識を失った。サリタは慌ててロランドの名を呼ぶが、視界がぐにゃぐにゃと揺れていることにようやく気づく。


「え? 何?」

「これはこれは、サリタ様。ご機嫌麗しゅう」


 遠くから聞こえてくる声に、聞き覚えがある。サリタは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


「ここにいてもらっては困るのですよ」


 ブロテ侯爵の蔑むような瞳に気づいた瞬間に、サリタは気を失った。



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