第5話 一仕事終えた気分です。

「こ、こんにちは、隣の301号室に住んでおります仮巳かりみつくと申します。挨拶が遅くなりましたがよろしくお願い致します」

苦節八日間、ようやくやってやりましたよ。ここまで頑張ったのだから、今晩も軍資金を使って再度美味しい料理を賞味する必要があります。

なお、私は内弁慶にして内心弁慶なので外面としてはおとなしく見られることが多いです。強く主張したいのは決してわざとやっているわけではないということです。

しかし、この眼前にいる男性も比較的おとなしそうですね。もちろん、私という実例がいる以上内心はわかりませんが。次の瞬間にはうぇいうぇい叫びだすかもしれません。期待しましょう。

もちろん、その期待は裏切られて実に丁寧に対応して下さいました。

「ご丁寧にありがとうございます。こちらこそご挨拶が遅くなり誠に申し訳ございません。302号室に住んでおります字野じの光太こうたと申します。ご迷惑をおかけしないよう万全を期しますが、もし何かありましたら改善致しますので」

むしろ入社初日の社会人一年目みたいな挨拶でちょっと関心さえ覚えてしまします。私も将来的にはこのような立ち振舞が必要になるのかもしれませんね。今後この方はジーノと呼ぶことにします。

しかし、隣にいるようの表情が気になります。ぱっと見た感じはとてもにこやかですが、その目は今まで見たことがないくらい真剣で食い入るように彼の顔を見ています。その目に何が見えているのか、あるいはその五感に何を感じているか姉にも分かりません。

話しても仕方がないですし、そもそも話すような話題もお互いに持っていないので手土産をさっと渡すと、ここで失礼することにしました。来たときとは逆に私が陽の手を掴み、自室へと引きずっていきます。

ミッションコンプリート、お仕事完了。最高の響きですね。これで今晩の饗宴は最高に楽しめます。


◇◇◇


301号室の中に大変美味しそうな香りが広がります。醤油と砂糖を混合した甘辛い香りに若干生姜の風味が加算されていて、換気扇を回しても完全にこれを除去することはできません。私は陽の監督を受けつつ、タグすらとっていなかったエプロンをまといながらタレに浸され、フライパンの上に横たわる豚肉をひっくり返すのです。


どうしてこうなった。


私の食生活を確認していた陽は速やかにスーパーに私を連行し、今晩の材料を軍資金で購入してしまいました。豚ロース肉とキャベツ、インスタントのカップ味噌汁に生姜焼きのタレです。「お姉ちゃんが生姜とか砂糖とかお酒とかから作るのはまだ早い」と宣告されてしまったが、お米すら買っていなかった私に反論の余地はありませんでした。もちろんお米も購入し、私一人が持つことになりました。

そういうわけで今晩の外食に当てられるはずだった軍資金の大部分はそのお米に消えていき、夕食は部屋で作ることになったのです。陽にお小言を頂きつつ、四苦八苦した結果生姜焼き定食は完成を迎え、即座に私達二人のお腹の仲に消えて行くのです。苦労の結果として美味しいものができるのは嬉しいのですが、すぐに目の前から消えてしまうのはなんとも儚いものです。


◇◇◇


夕食後も何だかんだとおしゃべりしていましたが、22時ころになって陽が伸びをしながら立ち上がります。

「じゃあ、私はホテルに行くね。明日の朝にまた来るから鍵借りていい?」

「あれ? ここに泊まらないのですか?」

てっきりそうするかと思っていましたが、どうも違ったようです。

「うん、お父さんたちが泊まる予定だったホテルがあるからそっちに行くよ。風邪を引いてもいけないからそっちに行くようにいわているんだ」

それに夫婦水入らずの予定だったから結構いいホテルをとっていたみたいだしね、と陽は笑います。

「わかりました。じゃあまた明日」

私はキーケースごと陽に渡すことにします。この後外出する予定はないので大丈夫でしょう。

「うん、また明日ね! ちゃんとあったかくして寝なよー」

そういいながら陽は風のように行ってしまいました。

私一人の部屋に戻っただけなのにいままでよりもずっと暗く、必要なものが揃っていない違和感を覚えるのは気のせいではないのでしょう。

意味もなくきょろきょろとしますがもちろん状況は変わりません。と、ここで私の携帯電話が鳴ります。確認してみると、陽から連絡入っていました。

『いま、スーツケースを開けてみてね。じゃあおやすみなさい。久々に会えて私も楽しかったよ』

私の内心を見透かされているかのような内容に思わず笑みがこぼれてしまいます。返信する前にとりあえず玄関にあるスーツケースを開けてみることにしました。

「あっ、これ……」

中にはちょっとした食品などが少しだけ詰め込まれていましたが、目を引いたのは一つのぬいぐるみです。これがなければもっと色々なものを入れられたでしょうに、案の定スーツケースの大半を選挙しています。

それは大きなイルカのぬいぐるみでした。昔、家族で一緒に水族館に行った際に陽と私で色違いでプレゼントし合ったもので、もう何年もずっと実家のベッドボードに置いていたものです。ここのベッドにはベッドボードがないので枕のすぐ横に置いてみると、あるべきものがそこにあるように、なんともいえない収まりの良さを感じました。

『私の内心を見透かされているような』ではなく陽は私の内心をすっかり見透かしているのでしょうね。

ありがとう、私も久々に会えて楽しかったよ。

陽に送るメッセージを打ちつつ、お風呂にお湯をはります。いつの間にか部屋が少しだけ暖かくなっているのはお風呂場から漏れる湯気のせいだけではないと思います。


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