伽紅耶(ニ)

《これこれ、〰️〰️〰️〰️よ、悪ふざけは止めてたもれ》


 いやに艶を含んだ声で少女が言った。やはり、あやとは馴染みであったらしい。少女はおそらく、のまことの名を口にしていたのだろう。けれど平馬の耳には異国語のようにしか聴こえなかった。

 少女が平馬のかおに向き合って喋り出した。


伽紅耶かぐやじゃ。よしなにの》


 きゃきゃゃと笑い立てた伽紅耶の歯は、ほおずきをんでいるかのように赤かった。


「ひゃあ」

 おもわず平馬が喉を震わせた。

 お歯黒はぐろは見慣れてはいるが、赤い歯というものを視たのははじめてで、さすがに平馬も後退あとずさりしてしまった。



 ・・・・伽紅耶かぐやという存在は、平馬にはすこぶる苦手な相手だったようだ。女の性のありようというものがよくわからないからだった。

 平馬は母を知らない。

 父の顔は知っていはいるものの杉森信義のぶよしは、実父ではない。その真相はこの物語の進展にともない、おいおいあきらかになっていくであろうが、ここでは平馬は生まれ落ちてすぐに京の公卿、一条家や正親町おおぎまち家に預けられたということだけを読者は知っておけばいいだろう。

 父母の愛を知らないということは、平馬にはある種の人間関係構築力が欠落していることを意味していた。

 男のなんたるかもわからず、女のなんたるかもわからない。他人ひとの心の機微きびも知らず、心の移ろいの不可思議なありようをも知らず、つまるところ、平馬は人間というものが苦手で苦手でしかたなかった。ろくに喋ることもできず、かりに往来で未知の他人から声をかけられることがあったなら、返辞へんじもできずに走り去ることしかできない。それはいまも変わらない。


 人間嫌い。

 これが平馬のたちというものであったろうか。

 ・・・・まして、物心つくかつかない頃から、不移ふい山人さんじんのもとで修行を積まされてきた。なにを学んでいるのかすらわからないまま、昼夜を問わず、さまざまな呪文を暗喩あんゆさせられた。真言密教から祝詞のりとまで。あるいは、万葉の詩歌しいかから、古代の大王おおきみであったかもしれない蘇我そが物部もののべ氏の伝承書肆しょしまで。さらには、小太刀こだちの遣い方、鞍馬くらま古流の太刀・・・・。

 ちなみに。

 鞍馬は、暗闇間くらまでもあって、いにしえから、そこに籠もることでひとはなにがしかの能力を獲得してもきた。かの牛若丸(源義経)も鞍馬で常人ならざる力を獲得したのであったろう。杉森平馬もまた、鞍馬での厳しい修行を経て、あやかしとの交感力を得たにちがいなかった・・・・。


 いずれにせよ。

 平馬は、ともに過ごした同い年の一条善哉や、数年前に突然現れた老侍の竹沢左京衛門、一条屋敷の奉仕人ぐらいしかまともに喋ったことはないのだ。

 だからこそ、のような身近な人外の存在こそ、平馬にはかけがえのない友、仲間なのであって、いま、目の前に現れた伽紅耶かぐやが、味方なのか敵なのかを見極めるにはまだ相当の日数を要するにちがいなかった。


〈警戒せずともよい、警戒せずともよいぞ〉


 繰り返しはそう平馬をさとすのだけれど、伽紅耶の正体を読みきれずに、平馬は戸惑っていた。

 もっとも伽紅耶が自らの名を告げたことは、前進だったというべきであろう。あやかしがおのが固有の名を相手に明かすことは、すなわち、危害は加えないと誓った・・・・ことを意味しているからで、その意味では敵対する側のものではないはずである。

 とはいえ。

 半日が過ぎてもなお、平馬の意識はとまどい続け、思念は一向にまとまらず収斂しゅうれんし続けている・・・・。

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