その名は、綺(あや)

 ともに戻ろうとかす左京衛門をうまくかわせたのは、かれを頼って福井から出てきた侍のおかげであった。今夕、同郷の者を世話をしなければならない約束があった左京衛門は、それでも平馬のひとり歩きを見過ごすことはできないようだったが、一条家の善哉よしかねの屋敷に行く途中だと平馬が告げると、左京衛門はしぶしぶながら応諾した。

それは平馬が、物心ついてより一条家の居候も同然の身であったからだ。


 一条家は、名家中の名家である。

藤原 五摂家ごせっけのひとつで、脈々と続くとう家の末裔である。かつて天智てんち大王 おおきみの時代、中臣鎌足なかとみのかまたりが〈 藤原〉姓を賜って、鎌足の直系の血族のみが藤原姓を名乗ることになったのだが、なかでも五摂家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司 たかつかさ 家)は、大納言から右大臣、左大臣を経て、やがては摂政せっしょう・関白・太政大臣に昇任できる藤原一族である。

 しかも。

 その五摂家の中でも江戸時代初期、御陽成天皇の皇子が養子にはいって家を継いだ三家がある。皇別摂家こうべつせっけ、ともいった。近衛、鷹司、一条家である。


・・・・平馬が育った一条善哉よしかねの家は、いわば一条家のなかでも枝流庶流であって、当主の善哉よしかね は、たかだか三十石ほどの所領があるにすぎない。しかも、善哉は、平馬と同い どしで、平馬はかれのことを〈 ぜんや〉と呼んできた。いまは所用で善哉は東国へ赴いていて、留守居 るすい役の用人ようにん もおらず、数日に一度は様子見を頼まれていたのである。


それに。

あや〉の世話をしなければならない。とは善哉が名づけた仮の名だが、ありていにいえば、三つの尻尾を持つ妖犬のことをす。

 妖狐のようにもみえるが、一条家で飼われていた犬に取り憑いた付喪神つくもがみのようなものであったかもしれず、幼き頃から平馬と善哉は馴染んできた。さらにいえば、あやとは、幼くしてった善哉の妹の名であった・・・・。

 むしろ、このあやかしの綺は、平馬や善哉にとっては育ての親のような存在、とまでいっては言いすぎであろうが、関係としてはそれに近いかもしれなかった。


難点としては、あや はあまりにも人見知りが過ぎて、平馬か善哉がそばにいないと外を出歩かないのだ。


〈なんだ、おまえ、この家を忘れたのかと思ったぜ。遅い遅い遅い遅すぎる〉


が言う。

〈善哉も善哉だが、平馬も平馬だ〉

さらに言う。

 同じ語句を重ねて使うのは、昔からのの口癖だった。


〈今朝、おかしな女がおまえを訪ねてきたぞ!おかしな女だ、おかしな女だった!〉


「や!」

 平馬がき返すと、は真ん中の尻尾をぴんと立てた。

 それは、物の怪を感得したときの動作である。


「ん?では、女は、あやかし?」


 すると、は首を傾げて、舌を出した。長い舌で、のばすと七尺(約2m)ほどにもなる。おそらく、舌を巻く、とはを見た人間が驚いて作ったことばなのではと平馬はおもってもいた。


「どんな女人?」

〈そうだな、おまえに、似ていたな、似ていたな!〉

「似ている?」

〈今夜、やってくるぞ。たぶん。やってくる、やってくる〉

 それを聴いて平馬は、の尻尾が踊っているのを見た。

 これはが面白がっている証拠だ。

 なにやら妙な緊張を覚えて平馬はが長い舌を出して蚊を絡め獲っている姿態のちぐはぐさな動きに驚いていた。

〈そうだ、名を告げていた、かぐや、伽紅耶、そう、かぐやだ〉

 が舌を巻きながらつぶやいた。


 はて、と平馬は首を傾げた。

 あやかしが自らの固有の名を告げることは、滅多にない。なんとなれば、名乗ることは、相手への服従、あるいは儀礼のようなものであるからだ。

 そのあたりのことをもっと詳しくたずねようとした平馬より先に口火を切ったのは、であった。


〈河童烏のゆくえは、わかったのか?わかったのか?〉

「いや、まだ・・・・」

〈捜し方が、間違っているのでないのか?間違っているのでないのか?〉

「・・・・・・・」

〈捜すなら、あやかしつかいのほうをあたるべきだろう、あやかし遣いを・・・・〉


 の理屈はそれなりに首肯しゅこうできる。あてもなく脇道や小径こみち、空き家をあたっていてもらちが明かない。

 しかしながら。

 あやかし遣いを雇っているのが伊賀者だとしたら、この京の都では、その首謀者たる権力者は、京都所司代しょしだい、あるいは近々設置されると噂の京都町奉行所に関わりのある実力者ということになるではないか・・・・。

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