1-終 彼女は色々な呼ばれ方をする

 ──リプスはソファの背もたれ越しに、その向こう側の光景を眺めた。

 ワンフロア形式の事務所の中でも、とびきり居心地のいい場所に設えた一角。

 大きな採光窓を背に様々なアンティーク品が所狭しと飾られ、その中央には重厚な細工の両袖机が鎮座している。


 フリード家の家長の象徴であり、かつての主君の信頼の証として贈られたのだと、リプスは亡き父から何度も聞かされている。我々はお役目をよくよく務めあげて、これらの財産を後世に残していくために在るのだと。


 、あれを売り払った事に後悔は無い。リプスは心から思った。

 家名もプライドも所詮は死人との約束ごとだ。重大な価値があるように聞こえたところで、今生きている、掛け替えのない人々とつり合う程では無い。

 立場が邪魔をして表沙汰にすることは少ないが、リプス・フリードとは、本来がそういう価値観の持ち主なのだ。


 思い返せばあの少女には、そんな性格を見抜かれていたのかもしれない。

 NDIと名乗る不思議な少女の一言で、あの時確かに心の中の霧が晴れた。


 ひとまずは茶でも淹れて、今後についてゆっくりと考えよう。

 せめて息子の進学費くらいは工面してやらねば。

 姿勢を正したリプスがそう考えた折、ふと目の前の応接テーブルに残された便箋に目が留まる。

 先ほどNDI(と、十徳枝)に書かされたデスクの譲渡に関する念書の片割れだ。


 やり口は忌々しいが、書類を紛失したらそれこそ厄介だ。

 ひとまず事務所の鍵付きキャビネットにでもしまっておこう……そう考えて便箋を拾い上げ、何の気なしに書きつけられた内容にふたたび目を通す。


 そこでリプスはようやく自身の氏名と共に末尾に書きつけられていた代物の正体に気付き、顎が外れんばかりに驚愕した。


『抹消の少女術士』、『花と宝石の国の血まみれ姫』、あるいは端的に『師匠殺し』。彼女を指し示す渾名は数多い。そのどれもがごく最近になって呼ばれ始めたものだ。そしてそれらの呼び名が本人へ直に投げかけられる機会は実質皆無だ。


 師事していた魔術士の殺害容疑をかけられつつも、彼女はほんの数日で釈放されて以降は捜査も打ちきりでお咎めなし。

 殺人すらも政治的判断で放免されたとまことしやかに囁かれる異国の姫君。


 当時、早々に報道規制が敷かれたこともあり、彼女の顔写真は不鮮明な盗み撮りしか出回らなかった。

 しかし、思い返してみればあの粗い画素で写された薄ぼんやりしたシルエットも、頭髪の色は翠がかった乳白色をしていなかったろうか。


 いまリプスが手にしている書類には机の預かり人として、件の師匠殺しの姫君の本名がたおやかな筆致で綴られている。


 それは間違いなく、NDIと名乗る少女エージェントが彼女自身の名として記したものだった。

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