1-3 神経迷宮:リプス・フリード
その花々はややカールした花弁が重なり合っていて咲いていたので、ひとつひとつが不規則な形状を描いている。そよ風に揺られる様は海を泳ぐ魚のようにも、空を飛ぶ鳥のようにも見えた。
そしてどれもが、南国の輝く海や高原の雲一つない空を写しとったかのような澄んだ青色をしている。
きれいだな、とNDIは思った。
彼女が今歩いているのは、日当りの良い庭園の、青い花々がこぼれ落ちんばかりに咲き誇る一角を突っ切るように伸びた遊歩道だ。
足元はレンガ敷きになっており、カスタードのような温かみのある黄色とバターのような乳白色の2色づかいで簡素な
伝わって来るのは、ただただこの道を敷いた人物の『通行人にとって素敵な場所に整えたい』という素朴な気持ちだけだ。
リプス・フリード氏は、生粋の魔術士にしては珍しく他者に対する警戒心があまり強い方では無いらしい。
歩を進める内に、周囲の生垣や木立はサイズや密集の度合いを徐々に増し始める。程なくして道の左右には背の高い生垣が濃緑の壁じみて迫り、遊歩道もいつしか緩いカーブが組み合わさって形作られるようになっていた。今や頭の高さを優に越した生垣に阻まれて数歩から先は見通せなくなっている。
そんな迷路じみた道のりであっても、可憐な青い花は未だに道の両脇に点々と咲いていて、水先案内の灯火のようにも見えた。
歩き続けるうちに生垣が不意に途切れ、ぱっと視界が開ける。
進行方向には緑のアーチがかかっていた。蔓薔薇で形作られたトンネルを、ろうそくの灯りのような赤橙色の花が彩っている。
そして、更なる向こう側には、明るい茶の色漆喰と白い漆喰でデコレートされた一軒家の
目的地に着いたのだ。
【……確か、……………の手入れを……2月に…………】
霊的感覚としての天上、そして基底現実における右隣から十徳枝の声が聞こえる。
よしよし、尋問は順調に進行しているみたい。とNDIは得心して満足げに頷いた。
今現在のNDI……正確には彼女の主観意識……が居るのは、今回の調査対象、すなわちリプス・フリード一級魔術士の表層意識、平たく言えば『心の中』とでも言うべき場である。
そして同時に、彼女の肉体はこの瞬間もフリード事務所は応接コーナーの上等なソファに、十徳枝と肩を並べて行儀よく腰掛けているままだ。
魔術士に限らず、およそ人類の内面には固有の領域が存在する。少なくとも、そのように仮定されている。
おおよそ、魂の器であるとか、魔術の源泉であるとか、
他者の精神領域を建造物に見立てて再加工し、潜行すること。それが、NDIの用いる魔術の全容である。
……尚、精神領域の観測や介入を行う魔術は、彼女の専売特許ではない。
しかし、現時点で公式に伝承または開発されている魔術は、どれもが対象の脳と精神に不可逆な損傷を与える可能性があった。
彼女の術が特別である理由。それは、生きた脳を一切破壊することなく観測可能な点にあった。
……また、損傷とそれに伴う苦痛や違和感が存在しないことは、対象へ『ダイブ』を悟らせないことも意味する。
彼女の術の最大のユニークさは「作用が優しいこと」であるが、業務上の有用性という観点において、それは「ある種の隠密性の高さ」にくるりと姿を変える。
何にせよ徴税人としては得難い強みであり、彼女のエージェント名が『非破壊検査』に定められた理由でもあった。
NDIの意識が薔薇のアーチを潜り、こじんまりとした屋敷の玄関口に立つ。
砂色のスレート葺きの屋根に明るい飴色の壁。窓やドアを縁取る装飾レリーフは白漆喰で造形されている。窓ガラスは手吹のようで分厚く、表面がかすかに波打っていた。板ガラスが超高級品だった時代の製法で、これは『家』の主であるリプスの趣味と共に、彼の継承する血脈の古さについての自負も控えめに表しているようなのだった。
NDIは一旦背後へ向き直り、周囲の光景を確認してみた。
自身が歩いて来た迷路じみた庭園と屋敷との間にはやや開けた芝生のスペースがある。
片隅には組み立て式のブランコ、傍には三輪車が見える。共に古びてはいるが、荒んだ印象は無い。かつてこれらの遊具で遊んでいた子供とは、成長した現在でも悪くない関係を築いているのだろう。
あれはつまり、その子(恐らくは息子であろう)のとりわけ可愛かった盛りを懐かしむ気持ちの象徴だ。
仰ぎ見れば春先の晴れ空。ひとつかみの綿雲がゆったりと中天近くを漂っている。
再び、視線を降ろして屋敷へと向き直れば、こじんまりとした田舎風建物が緑に囲まれた姿で相変わらず建っていた。
長閑そのもの、といった光景である。
それだけに不自然だ。
仮にリプス・フリードという人物が心穏やかな完全無欠の善人であったとしても、だ。数十年間を生きたことでの経年変化が精神構造に表れて然るべきである。
どんなにメンテナンスの行き届いた屋敷であっても、築数十年も経てば新築同様の見た目のままではいられない、と言い換えても良い。
ひるがえって現在の彼のインナースペースはあまりにも整っている。絵本か、さもなくばモデルルームのパンフレット写真のようである。
NDIの経験上、こうした光景が意味するのは『今の自分には何の悩みもありません、状況は平和そのものですよ』と自他に言い聞かせてでも隠さねばならない『何か』が有る。と、いうことだ。
……ファサードが華美な者の中には、裏手がぎょっとする程に荒れ果てているケースが存在する。
今回が『それ』に当たるかどうか、実際に確かめることに決めたNDIは、歩を進める……代わりに右手を掲げ、広げた手の指で眼前の論理空間を
眼前の光景がNDIの指先が描く軌道に追従し、みるみる内に縮小されていく。
程なくしてドールハウスほどのサイズとなった屋敷がNDIの目の前、ちょうど胸元あたりの空間にぽっかりと浮かび上がる。
NDIが手を伸ばしてリプスの
……雨どいから溢れた雨水が壁面に染みを作り、壁面の下部には、砂利道から跳ね上がった小石が付けた細かな傷がいくつも見られた。
古びた木箱の中に、これまた使い古した様子のブランケットが被せてあり、その下には欠けや歪みのある食器がいくつか乱雑に入っている。
しかしこの程度なら生活感がある、と言える範疇だ。
生活感。それはファサードに欠けていた要素でもある。
裏庭は雑然とした様相であっても、乱れや荒れはそこまで酷くはない。
単に広さに対して物が多いだけなのだ。花を付けていないシーズン外れの苗であったり、何らかの傷病の手当をしていると思しき花木が鉢植えとして所狭しと置かれていて、果ては東屋まで建っている。
件の東屋は、造りとしては簡素で作業場を兼ねたものらしく、庇の下には木箱が積み上がり、棚には薬剤や道具類が整頓して納められている。
そんな家主の年月の積み重ねを感じさせる風景の中で、一か所だけ異質な気配が漂うのをNDIは気取る。
裏庭の片隅、屋敷の壁沿いに地面を掘り下げる形で作りつけられた緩やかなスロープの先、フォレストグリーンに塗られた金属製のドアが違和感の源泉であった。
どうも取っ手の辺りに光を反射するようなパーツが有るらしいが、建物の陰になっており確認しづらい。
ミニチュアサイズのままでは細部の観察は難しい。NDIは、裏庭の空間を軽くタップする。
次の瞬間、湿り気のある空気の中に草いきれや土の匂いが漂う裏庭に彼女は立っていた。
改めてドアに向き直る。裏庭の他の物品と同程度にくたびれているが、しかし痛みや汚れは少なく、ペンキもマメに塗りなおしているのが伺える……そこまで視線を彷徨わせたNDIだったが、次の瞬間に息を呑んだ。
──両開き式と思しきドアの、二つの取っ手には太い鎖がグルグルと巻きつけてあり、更にはいくつもの錠前が下がっている。そして白墨によるものだろうか? 護符の類までが描きつけられていた。
古びた扉にあって、そのあからさまな封印の数々だけが真新しい。
NDIは悟る。このドアこそが
となれば、扉の先へ向かえば正体を知ることもできるはずだ。
──ふと、この場にただよう禍々しさとは別種の気配を感じた。
誰かに見られている。
そう過ぎってからNDIは首をかしげる。この手順で入り込んだインナースペースには生き物やそれに準ずる高度な知性を持つ物は現れないはずなのだが。
空間の主は当然のことながら知性体だ。しかし、いかな生物とはいえ自分の脳の中を直に覗く真似は、通常不可能だ。
……裏庭に面した壁面。そこに穿たれた開口部は眼前の扉の他に、もう一つ有った。
二階にあたる位置に、一つだけ窓が作りつけられている。鎧戸は降りておらず、ガラスの向こう側のカーテンが見える(花柄だ)。
そして。
NDIが視線をやったのと同時に、カーテンがひらりとはためき終えた。風によるものでは無い。まるで合わせ目から覗いていた誰かが退いた瞬間かのような動き。
他者の神経迷宮にダイブする時間には限界があるので、探索する先についても優先順位を付けねばならないだろう。
しばし思案したNDIは小さく頷き、思い定めた目的地へと移動した。
お菓子のような、素朴な可愛らしさの外観だった館は、内部もまた
再び縮小したリプス・フリード邸の上半分をかぱりと外して、一階内部を確認したNDIの感想だ。
まずは窓の向こうを探ることに決め、現在は邸内の構造を確認している最中である。
正面玄関の先にはエントランスホールが続いている。
規模は小さいながらも応接セットやマントルピース等の最低限の設えは揃っていた。招待客を迎える際の順路は、ホールに続く階段から二階の……恐らくは客間へと誘導するという物のようだ。
一階の残りのフロアは夫婦それぞれの私室と小さな台所で、特筆すべきオブジェクトは見受けられない。
と、いうわけで本命視している二階の奥の間──裏庭から見上げた窓が有るであろう部屋──を探すべく、NDIは抱えているリプス亭の上半分を元の通り一階フロアに嵌め直すと、今度は屋根だけを外そうと試みる。
……が、屋根と二階フロアとは、まるで釘付けされているかのように固定されている。
念のため、グッと力を込めてみても微動だにしないのを確認すると、NDIは花がほころぶように微笑んだ。
何故ならば。
俯瞰による観察が不能ということは、当該エリアに高度な魔術的防衛が施されている一角が存在することを意味する。
わざわざ思考に『鍵』をかけてまで守るべき何かが、そこに有る。
NDIが潜行するのは、自我を有する存在の神経系統を模した、生きた記憶の殿堂である。
ましてや魔術士ともなれば、秘匿しているモノの正体は十中八九絞り込める。
「──禁術指定の魔術!」
目当てのポイントへは徒歩にて侵入すると決め、NDIはメインホールへと舞い戻って階段を昇って行った。
リプスの神経迷宮はかなり素直な造りをしているようで、今のところ外観と内部の構造にさしたる矛盾が存在しない。そのため、秘匿情報の所在についても簡単に目星がついた。
もっとも奥まった場所に位置するドアの前に立つ。裏庭から見上げた窓が存在するとしたら、この先のはずだ。
しかしNDIの眼前に鎮座する飴色をしたニス塗りのドアには、ノブが無かった。
緻密な装飾の施された真鍮のプレートは、中央が不自然なまでにのっぺりとした空白となっている。プレートの位置はNDIの腰の高さあたりで、本来ならばドアノブが存在するはずの位置だった。
目を凝らすと、件の空白にはかすかな溝が彫り込まれて鍵穴の形を描いている。
この場合、鍵を示唆するシンボルの意味するところは明らかである。
【
と、いうことだ。
解除の手段は様々だが、おおまかには館の主(つまりは神経迷宮が構築された脳の持ち主その人)よりも高い能力を示すことで屈服させ、魂に敗北を認めさせる必要がある。あるいは館の主の、心からの信頼を得るというのも正攻法の一つと言えた。
しかしNDIはこの類の判じ物に付き合うことは滅多に無い。
その代わり、ただ鍵穴に話しかける。
「貴方の片割れって、だあれ?」
はたして今回も、水晶細工のように輝く仮想鍵が彼女の掌の上に現れた。
クローバー型のキーヘッドはやや大ぶりで、丸みのある握りやすい形状をしていた。鍵と取っ手を兼ねた部品ということなのだろう。
鍵穴に差し込んで押し回せば開錠音と同時に滑るように扉が開く。
同時に、金色の瞳と目が合った。
NDIが吸い寄せられるように戸口の向こうへ姿を消すと、ドアがゆっくりとした動きで閉ざされていった。
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