第41話『右大臣昇進と京都新城』

1607年となり、俺は元服を果たした。先日元服祝いを口実として、三河狸は右大臣を俺に譲った。この際に征夷大将軍の職は息子の秀忠に譲っていた。


こうして俺は右大臣昇進したのだが……


一見すると三河狸はしっかりと俺に対して配慮をしているようであるが、秀忠の将軍職継承は、天下にはもはや豊臣家ではない。徳川家が天下に君臨することを示したのである。


これに対して辛うじて権力を有していた豊臣恩顧の諸大名と共に抗議の声を上げたが、我関せずを取った徳川の前に結局は折れざるを得なくなり、豊臣の権威がなくなりつつある事を、世間に露骨に示したのであった。


ここで俺はとある一手を投じることとした。兼ねてより進めていた京都新城への本拠地の移動計画の実行である。これにより、朝廷と密接に関わることができ、八条宮智仁親王の皇位継承に向けた行動をしやすくなる。


母、淀にはこの計画は反対されることが大いに予想され、決して伝えることなく内々に家臣にその旨を伝えていた。


この京都新城といえば、関ヶ原の戦い際、戦闘に新城を利用されるのを避ける目的で、屋敷の防御施設が町人足役を動員して、南面御門、内堀、南城ノ堀・石垣などが撤去され、1627年に廃城となった、現在の仙洞御所に存在した、俺の為の城郭型邸宅である。


尤も京都新城と呼ばれたのは現代に入ってからであり、太閤御屋敷、太閤御所、太閤上京屋敷などと呼ばれた後、単に新城や秀頼卿御城、京の城と呼ばれていた。


俺はこれを機に、父秀吉が徹底的に棄却した聚楽第じゅらくだいのように京都新城に豊楽第ぶらくだいという名を与えた。


由来はかつて大内裏に存在した豊楽院ぶらくいんである。


因みに豊楽院とはかつて京に存在し、新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正月慶賀、節会せちえ射礼じゃらい、饗応などが行われる饗宴施設であった。


今回付けられた豊楽には豊家がゆっくりと楽しく寛ぐ邸宅であるという意味が含められている。こうして正史で有れば名が与えられなかった新第に名が与えられた。


右大臣昇進を果たしてから二月経ち、遂に俺は母の反対を押し切って、豊楽第へと居を移した。


それと同時に全国諸大名に対して、上洛せよと命令を下し、豊楽第拡大の天下普請も併せて申し付けた。


元服を果たした俺は、名実共に豊臣、羽柴宗家の当主となり、豊臣の権威回復に遂に動き出したのである。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


何か京都新城に良い名称付けれないかと考え、調べていたら、偶然大内裏に豊楽院を見つけてこれだって思いました。自分は気に入ってます。段々と正しい歴史と違っていくので、頑張って着いてきてくださいね ( *・ω・)*_ _))ペコリン

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る