第26話『徳川方東海勢』
秀忠よりも遅れて江戸を発った家康は駿府に入城していた。
家康は江戸を発った後、小田原、韮山の順に軍を休ませつつゆっくりと移動して、駿河国三枚橋城、蒲原城の順に城を攻めつつ駿府を目指した。
駿府城は家康自身が築城した城であり、かってはよく理解していた。しかし、中村一氏の守護する駿河は家康侵攻に備え防備を固めるなど防衛機構を強化していた。
しかし、結果はどうであるか。一氏は病気を患っていた為に、前線で指示することが出来ずに呆気なく駿河東部を二週間のうちに攻め落とされた。
またいざ駿府城に籠城をと構えれば、一氏の病気は戦禍の中であるからか、ますます悪化。一氏は病気をおしつつ駿府城に家臣らと共に籠もったものの、総大将の健康上の不良に依り、重臣らは開城を選択し、一週間経たずして落城した。
中村一氏は病気の為、蒲原城にて蟄居。息子中村一忠は遠江国を治める堀尾氏に身を寄せていた為に無事。その他重臣は韮山城に送られることとなった。
駿府城に久しく入城した家康に秀忠の上田城攻城の大敗と再度上田城へ総攻撃を仕掛けるとの知らせが届いた。
「竹千代が大敗……なんの為に正信をつけたのだ……」
既にこの時伏見城は落城し、鳥居元忠の死が家康に伝えられていた。
こうして家康は元忠の死や、次期当主する筈であった秀忠の処遇に関して頭を悩ませるなど、様々なことが重なり体調を崩すこととなる。
家康に代わって軍勢を率いるのは、家康の四男松平忠吉であった。
忠吉は当初の作戦通りに西上することなく、江戸に残した別働隊と連携して、挟撃する形で浅野長政の子幸長の籠る甲斐甲府城攻めを決定する。
〜甲府城〜
「駿河は落ちたか……」
「左様でございます。殿、駿河より逃げて参った兵がおりまする。どう致しましょう」
「戦に備え、この度修築した新府城があるであろう。彼処の防備につかせよ」
「はっ!」
家臣が幸長のいる部屋から出て行くと、幸長は畳の上に敷かれた戦況を表した地図を眺めた。
武蔵国側からの侵攻に備えて修築した岩殿城。更に西方の廃城となっていた新府城を修築するなど、防衛能力を高めていた。
岩殿城に二千。更に新府城には中村の兵合わせて六千。甲府城には七千と領民を皆兵するなど、寄せ集め感も漂うが、これが甲斐国で集められる限度であった。
新府城と甲府城で兵を分けたのは、兵糧の問題であった。籠城では多くの兵で籠ったとしても、逆に兵糧攻めにあった際に弱くなるなどの危険性があった。その為に兵を分ける必要があったのだ。
対して徳川勢は、江戸側も合わせて約二万の大軍で甲斐を攻め立てた。
幸長は長く城に籠り続けた。籠城作戦を決定して二週間余で、既に攻撃を受けていた岩殿城は落城。その二週間後には新府城が落城するなど、甲府城は更に増した敵兵に囲われながら、「最早これまでか……」と自害をする決意を固めるも、家臣らの説得もあり城を開城。小田原城へ押送された。こうして新府城落城から十日余を耐え遂に落城した。
この甲斐の一戦により、忠吉の軍勢は秀忠の軍勢との連携が取れず、秀忠は単独で関ヶ原の戦いに挑むこととなった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
東海勢の事は軽く早急に、関ヶ原の戦いを起こします。秀頼の幼少期なんてさっさと終わらせます。早く大坂の陣をやって、秀頼内政を書きたいな(๑╹ω╹๑ )
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます