第5話『一年と十ヶ月』

初めて上洛を果たしてから一年と十ヶ月程が過ぎた。この間に慶長の役が起こった。一応朝鮮に渡る諸侯に「海を渡るの大変と思うけど頑張ってね!」と言っておいたりなど、激励しておいた。


結構喜んでくれたので多分媚び売りは成功かな。

ついでに慶長の役が始まってから暫くして、三成に対して『余り辛口の査定はしないでね』とも言ってみた。何処まで影響を及ばせたのかは分からないのだが……


更についでのついでに与えられた褒賞は有り難く拝領してねとも言っておいた。筑前筑後37万石への転封を受け入れてくれると良いが


他にも四歳となる前くらいから漢字などを書くようにしてみた。これも神童であると印象付け、父が亡くなった後への布石の為である。


こうした努力が実ったのか、『秀頼公は神童である。未来永劫豊臣は安泰であるな』と諸侯の間で話題となっているらしい。


最初は楷書しか書けず、中々草書を覚えるのに苦労したのだが、やっぱりこの身体の覚えが良いのか、一年程度である程度の文章を草書で描けるようになった。


五歳になる頃には武芸にも和歌にも力を入れるようにした。父や母は武芸をすることに否定的であったが、其処は押し通した。


父に頼み込み柳生宗厳やぎゅうそうごんや柳生厳勝としかつ、柳生宗矩むねのりを三河狸から強奪した。特に柳生宗矩は江戸幕府将軍家指南役に抜擢されるほどの逸材である。柳生新陰流とも評される新陰流を学べるのはとても価値があるのである。


一応柳生宗章むねあきにも声をかけたが断られてしまった。別に小早川秀秋に仕官しているので今じゃなくても良いだろう。


この柳生一族の指導の下、剣術以外にも兵法に関して指導を受けることとなる。かなりのスパルタで途中挫折しそうにもなったが、滅亡エンド回避のために全力でやり遂げた。


もしかしたら歴史を変わるであろう。俺の初めての歴史改変であった。


そしてもう一つ心掛けたことは、北政所秀吉正室との交流を積極的に増やしたことである。関ヶ原の合戦時に北政所が徳川に着き、大坂城から京都新城へ退去したこともまた滅亡エンドの原点の一つであると考えているためだ。


その為なるべく北政所と交流を増やした。大坂城から退去し辛い様に心掛けた。


あと母にも釘を打った。なるべく母と寄り添う様に心掛け、また北政所を敵視しないように『仲良くしましょう。共に遊びましょう』と仲を取り持った。


一応に見た感じは仲の良いが良いのだろうなぁと印象を持った。此れが決して間違いではなかったのを願いたい。


そうこうしている間に、北野大茶湯が催されて無事に閉幕し、遂に醍醐の花見の時期が近づいてくる。父の二回目で最後の大規模で北野大茶湯と並ぶ一世一代の催しである。


そうこれは激動の時代が間もなくやってくる、嵐の前の静けさなのだろう。

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