第三十三話 なんて遠い回り道なんですか?

「上島さん。日輪会長からお聞きしましたよ。姉妹になったとか」


 病院から出た直後、安奈は不動院に呼び止められ、一緒のタクシーに乗ることになった。気まずい。紙屋連合になった経緯もよく知らないし、ましてや彼女とは話したことがない。


「えっと……そう、みたいです」


「すごいことですよ」


 穏やかに──それでいて、歴戦のこくどうらしい意志の強さを感じさせる声で、不動院は続けた。


「我々は、天神会との決戦に動いています。ぜひあなたにもお力添えをお願いしたいですね」


「その……わたし、退院したばかりですし。お力になれるかどうか」


「道龍会の若頭を討ち取ったのでしょう」 


 血液の中を氷が走ったような気持ちになって、安奈はびくっと身を震わせ、思わず不動院を見た。


「あなたは、道龍会の若頭、達川を殺した。なるほど、会長が姉妹に盃を直すのも納得の大手柄じゃなあですか」


「……やめてください」


 それは誇るべき戦果ではなかった。高子のため、やっただけのことだ。達川にも、家族や友人がいたはずだ。もちろん姉妹も。高子のため、という一心でそれを成し遂げた彼女は、病院の中で苦しみ──そしてリノにそれを吐露したことで、一応の折り合いをつけた。

 もう自分は通常人カタギではない。だからこそ、奪った命を誇ることだけはやめようと決めた。

 死んだ御子やゆりも、同じように思っているはずだと信じて、安奈は自分なりに考えて決めた。

 わたしはなりたいものになれたはずなのだ。


「不動院さん。わたしは、あの戦いの中で確かに達川さんの命を奪いました。でも、それは自慢するようなことじゃないと思います。だから、お役には立てません」


「日輪会長がおっしゃることでもですか?」


「それは……」


「人の命は尊いものです。寺の娘ですので、それはよくわかっているつもりです。でも私らはこくどうでしょうが。なら、親姉妹の願いを叶えようと動くいうんが、こくどうの器量言うもんでしょう?」


 矛盾したもの言いでもなかった。道龍会との戦いのさなか、安奈に殺人をするよう命じたのは他ならぬ高子だ。

 ならば、高子が命じるならば──望むならば、安奈はさらに殺しを繰り返さねばならぬことになる。


『よお考え。そして決めろ』


 御子の言葉が空虚な胸に響いて消えていく。


「……不動院さん、ここで結構です」


 オウガグランドホテルの裏側、開放的なショッピングモールである元町クレドの前でタクシーは停まり、安奈はシートから無理やり体を引き剥がすように外へと飛び出した。


「タクシー代は私が持ちますから、お気になさらず」


 不動院は用は済んだ、と言わんばかりに、綺麗に笑った。


「安奈さん。近々、またお会いしましょう。どうしてもあなたとは腰を据えたお話をしなくてはならないようですから」


 その笑顔がどこかそら恐ろしく感じて、安奈は返事もせずに目を背けた。

 いつの間にか一人になって、安奈はヒロシマの街に一人残された。リノと食べたケーキの味が、恋しかった。彼女はスマホを握り、メッセージアプリを立ち上げる。なにかを送れば、リノは必ずなにかを返してくれるだろう。

 それは自分が求めていいものだろうか。人殺しで、彼女を拒絶するように突き放した私にとっていい選択肢だと思えない。

 勇気が出なかった。

 安奈は仕方なくスマホを仕舞う。枯れた風が安奈の体を通り抜けていく。ポッカリと空いた穴──埋まりきらぬ隙間を、音を立てて。

 家へ帰ろう。

 冷たいリビングで、惣菜を温めて──今はそんな家でも、帰る他ない。

 安奈はアストラムラインに乗ろうと、地下通りへ降りる階段へと足をかけた。重い一歩だった。



 夢を見た。三年前、まだただの中学生だった頃の高子は、荒んでいた。何をすべきかも、有り余る力をどうぶつけて良いのかも分からず、日々を過ごしていた。

 ヒロシマ市の北中学校周辺で暴れ回り、付近の数校をシメ終わった頃──運命を変える彼女と出会った。


「たーちゃん、いけんよ! ありゃこくどうもんじゃ。喧嘩ゴロなんかまいたら殺されるで!」


 友人が必死に止めるのを、高子は無視した。こくどう。その正体は、女子高生でありながら部活動でヤクザをやっているだけの女たち。

 その意味するところが、高子には理解できていなかった。


「……そっちの友達はよお理解しよるじゃない。ほんで、姉ちゃん。どがあにするん?」


 女は小柄だった。高子より一回り小柄で、紺色のブレザーにスカート姿。祇園高校こくどう部。通称祇園会の人間だ。

 彼女らの縄張りまでとある中学所属の不良を追いかけたのは、間違いだったかもしれない。その女はべつにその不良と盃を交わしていたわけでもない。追われていた女が、自分たちの領域に入ってきた。単にそれだけの理由で、女は自然と高子の前に立ち塞がった。


「こくどうがよ、なんぼのもんじゃ、ワレコラ!」


「おお、よう吠えよる。虎か猫か、狼か犬か……」


 小指から流れるように拳を握り、そのこくどうはぎりぎりと骨を鳴らす。こちらに聞こえるよう、はっきりと。


学区シマウチでのトラブル解決はよ、ワシらの仕事じゃけん。運がなかったのう」


 運。その言葉は高子の血管を容易にブチ切った。まるで上からのもの言いに対して、見下されたように感じたのだ。


「こくどうかなんかしらんがよ。……ちびっこい癖して、見下しとるんじゃなあで、コラァァッ!!」


 勝負は一瞬で終わった。

 そのこくどうは高子の放った拳をまるで歯牙にもかけずするりと抜けて、熟練の職人が糸を通すように精密に、細い腕から繰り出した拳を彼女の頬へ叩き込んだのだ。何が起きたのか全くわからない。

 トドメに、倒れた体を跨いでから突き下ろすような拳が風を切った。

 拳が視界いっぱいに広がり、高子は己の敗北と共に全身に冷や汗が流れるのを感じていた。


「ええパンチしとるわ。ほいじゃが、中学生ちゅうぼうよのう」


 そのこくどうは拳が打ち込まれる寸前で止めており、高子の顔面は無事だった。打ち込まれれば、ただでは済まなかったろう。それほどの差だ。

 敗北だった。完膚無きまでの敗北。高子はこれまで、中学生としてであるが、喧嘩で引いたことは一度もなかった。全て相手を叩きのめしてきた。それが自分の存在理由でもあったからだ。

 それが全て否定されて、彼女ははじめて目を潤ませ、涙を流した。


「や、殺れや!」


「中学生がアホ抜かすな」


 ブレザーの襟を引っ張って正しながら、そのこくどうは言った。


「こくどうに喧嘩巻いたんじゃ。覚悟はできとる! 殺せ! 殺しくされや!」


 大の字に転がったまま喚く。もはや潔さ意外で、この場を収める方法は思いつかなかった。


「ボケ。素人が効いた風に言うなや。ほたら何か。ワレ、ワシに身ィ任すっちゅんかい」


 高子の脳裏に、市内で幅を利かす天神会が行っているシノギがよぎる。

 こくどうの回収キリトリ(作者注・この場合の回収は、金銭以外の素人に対するケジメ付けも含んでいる)は、苛烈と聞いている。表はもちろん、噂に聞く裏のメイド喫茶での過酷な労働など考えただけでゾッとする。

 しかし、口に出した以上、二言はない。落としたリップは塗れないのだ。


「なんとでもせえや!」


 高子は自棄になって叫んだ。こくどうはにや、と笑って、彼女の手を掴み無理やりぐいと引っ張ったかと思うと、そのまま体を起こさせた。


「ほたらお前、ちいと苦労してもらうで」


 高子は少しばかりのヒロイズムを抱きながら、振り向いた。仲間に言葉を託そうとしたのだ。

 そこには、誰にもいなかった。中学三年間、不良として苦楽を共にしてきたと思っていた仲間達は、より強い存在であるこくどうに負けた自分を見捨てたのだ、と理解するのに、そう時間はかからなかった。

 理解できても、認めたくなかった。彼女らは何があってもついてきてくれると思っていたのに。裏切られた。


「あんなあら、だあれも残らんかったで。まあのう、仕方ないんじゃなあか? 親玉のお前がイモ引いたらそら、咎が自分にも及ぶいうてビビリもするじゃろ」


 高子は失望と絶望を、コーヒーに溶かしたミルクみたいにないまぜにしたような気持ちになって、肩を落とした。


「……どこへ行くんじゃ」


 諦めたようにそうつぶやく。めるは少しだけ考える素振りを見せてから、口を開いた。


「ほうじゃのう。ちいと付きおうてもらうか。腹減っとらんか?」


「お前に心配されるほどひもじくないわい!」


「お前、言うんはやめえや。ワシにも『安佐める』いうてそれなりの名前がついとんじゃけえ。で? 名前はなんな?」


「ひ、日輪高子じゃ」


「日輪か。なんや景気のええ名前じゃの」


 めるは小さく笑って、近くにあったお好み焼き屋『鯉柱』に案内した。

 見知らぬ店──そしてこくどうの領域へ踏み込んだことによる恐怖の中、めるは手際よくお好み焼きを作っていく。高子の分も。


「……いらん」


「いらんわけなかろうが。顔に出とるわ」


 返事の代わりに腹が鳴った。

 めるは高子に構わずに、コテで直接お好み焼きを運び、はぐはぐと器用に食べていった。高子もそれを真似して、あちあち、と小さく呟きながら食べていく。

 美味かった。


「よお食うてから。腹減っとるじゃないの」


「……今日はあんなあボコらんと、飯がくえんかったけん」


 高子の家庭は複雑だが、置かれている状況はシンプルだ。父親の離婚と再婚によってできた妹達とは、家族内で明確な差が生まれていた。父も継母も、高子のことを愛さなかった。それだけだ。

 高校はなんとかねじ込んでもらえると聞いて、断ろうか悩んだが──結局高子は高校入学を期に、一人暮らしをすることにした。誰も文句も心配もしなかった。

 そうと決まると、両親の動きは早かった。今後の生活費と言うにはわずかばかりの金の入った通帳を握らせ、まるで当然のように言い放った。


「もう帰ってくるな。お前の居場所はここにない」


 冷たい言葉だった。高子もうんざりしていたので、文句も言わず実家を飛び出した。

 だがヒロシマの街は中学生が一人生きていけるほど、甘くはなかった。彼女が選んだのは、生きるために力を身につけることだった。同じ中学生の不良を殴り、生活費を巻き上げた。警察に捕まることもあったが、それでもなんとか生きてきた。

 めるが出てくるまではうまく行っていたのに。

 そう思うとなんだか情けなくなってきて、ソースの残る白い皿を見下ろしながら、涙が止まらなくなってきた。不思議と嫌な気持ちは薄かった。食事を無条件で食べさせてもらうなんて、いつ以来だろう?


「のう、日輪。ワレ、高校はどこを受験するんな?」


「……知らん」


「知らんじゃなあが」


「親がねじこむ、言うとった」


 ぐす、と小さくすすり上げる高子を見て、めるは彼女の事情の一端を察した。そして、それは相応しい素質の持ち主であるとも感じた。

 つまりは、こくどうとしての素質だ。生き馬の目を抜くヒロシマで、女を張って生きるために必要な素質。親に頼らず生きるのは生半可なことではない。当然このまま放っておけば、高子はこのヒロシマという街に押しつぶされることだろう。

 逆に言えば、生き残るための知恵をつければ、その孤高な精神がこそがこくどうであるための一番の武器となる。


「のう、日輪。ワレ、祇園高校にこんか」


「……あんたんとこに?」


「ほうじゃ。ねじこむ言うんなら、どの高校でもええんじゃろうしの。ワシんとこで、女磨いてみんか」


「こくどうになれっちゅうんか」


 高子は顔を上げて、目元を拭うと、めるの目を見た。彼女は笑っていた。


「アホらし……あんたを親じゃ姉貴じゃ言えぇ言うんか」


「日輪よ。中学生殴ってカツアゲしてよ、メシも満足に食えんじゃ詮無いじゃろうが。こくどうになれや。メシもカネも手に入る。ええ服も着られるし、プチプラのコスメなんか使わんでもええ。デパコスのブランドもんが選び放題じゃ。ワシが盃やるけえ、そうせえや」


 複雑な気持ちだった。メシを食わせてくれて、自分に盃までくれるという。高子にとって、他人は敵だった。友人はいたが、たった今裏切られた。

 こくどうの盃はどうだろう。同じフレームに入った自撮りは、彼女らが姉妹や親子であることを証明する。

 それは、このヒロシマで最も強い結びつきではないか。そう思った彼女は、めるの提案どおりに祇園会へ入ることを決意した。

 高子は信じなかった。友情も、親の愛も、そこから生まれる信頼も。今もそうだ。

 ただこの安佐めるというこくどうだけは信じることができた。こくどうであり、こくどうとしての繋がりをくれたこの女のために、体を張ることができた。

 同じくして盃を交わした姉妹達のことも、彼女は無条件で信じた。それこそがこくどうの絆なのだと信じていたからだ。


「のう、日輪。お前もこくどうじゃったらよ。てっぺん取ってみいや」


 ある日、あの日のようにめると二人で鯉柱でお好み焼きを食べながら、ふと言った。


「てっぺん、ですか」


「ほうよ。祇園会のてっぺんちゅう意味じゃなあで。こくどうのてっぺんじゃ。やるからにゃあ、そこまでやらんと」


 てっぺん。言わんとすることはわかったが、どう辿り着くのかは分からなかった。


「ほいじゃが、わしゃあオフクロの子分でやれりゃあ、満足ですけ」


「そりゃあお前はそれでええかも知らんが。ワシもよう、お前に跡目を譲って受験しよう思うてよ。こくどうは結局部活じゃけん。そら、長いこと現役やるんもおるがのう」


 引退。いつかは来る別れに、高子は少しばかりの寂寥を感じながら、あの日のようにお好み焼きを口へと運ぶ。


「じゃけえよ、日輪。お前がてっぺんに立ったらわしゃ嬉しいんじゃ。あんなあはワシの子分じゃ言うて、大きな顔もできる」


「ほいじゃけど、天神会がおりますけん。てっぺんなんぞ……」


 めるはニカ、と笑ってその小さな手を伸ばして、高子の肩を叩いた。


「てっぺんいうんはのう、日輪。色々あるんじゃ。天神会は確かに金看板じゃ。誰もが認めるこくどうのてっぺんじゃろう。もしかしたら、ウチもやられるかもしれん」


 あり得る未来だった。

 すでにこのとき、天神会による教科書利権への介入は始まっていた。高子にとってそれは、差し迫った脅威だったのだ。


「その金看板の前でよ、祇園会じゃ言うて鉄の看板をかけてのさばっちゃるんよ。最後までの。……ほじゃが、いずれは意地も果たせんようになるじゃろう」


「オフクロ、そがあなん、ワシがさせん」


「わかっとる。頼りにしとるが。……もしもそうなりゃあ、世間は『鉄看板が金看板とええ勝負をした』思うじゃろう。ほしたら、てっぺんとる天神会と同格じゃ。日輪、ええか。てっぺんいうても、色々取り方見せ方があるんじゃ。ぺてんをよお使え。こくどうとして恥ずかしくないようにの」


 夢の中で、高子はひとり、冷たい年少の独房の中で正座している。脛に痛いほど伝わる冷気が、まるで罪の意識のように彼女を苛んだ。

 鉄の看板は叩き落された。めるは死んだ。それを知ったのは、年少に入って一週間も経ったころだった。

 自首する直前の電話──御子の様子がおかしかったのは、これだったか。独房は彼女の思考を煮詰めさせるのに充分な時間に満ちていた。めるは死んだ。それも、仕留め損なった白島によって殺されたのだ。鉄の看板を叩き落したのは、他ならぬ自分だ。

 頭を使えと言われたのに。やり方は色々あると言われたのに。そんなこと考えられずに突っ込んでいったのも自分だ。


「仇、とっちゃる」


 ぽつり、とそう呟く。

 死んだものは生き返らない。こくどうとしての汚名は、相手の死をもたらすことでしかすすげない。

 今や天神会の跡目となった白島を、たった一人で殺さねばならぬ。それは、あまりにも遠く、長い道のりだった。まさに酷道こくどうだ。

 明かりの差し込む病室で目を覚ました時、そこから覗く冷たさが自分を非難しているような気がして、高子は自らの体を搔き抱く。

 もう少しで手が届く。あまりにも遠い道のりのゴールが見えてきたのだ。それは喜ばしいことのはずなのに、高子はただ不安に感じていた。


続く

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