第三十四話 本音も建前もないんですか?

 事始めリハーサルの日は着々と近づいてきている。それを示すように、ヒロシマは荒れていた。

 紙屋連合の下位組織が、天神会によって襲撃されるようになったのだ。

 事務所のガラス割りや、小さなシノギへの介入──はたまた、下校中のこくどうへの襲撃など、攻撃の種類も多岐にわたった。

 サンメン上でも、天神会かそうでないかを問わず、あらゆるこくどうたちが、ヒロシマの空気がピリついてきているのを感じ取っていた。

 ヒロシマ中央病院には不動院が手配した選りすぐりのこくどうが警備についたことで、天神会側は攻めあぐねているようだった。一度襲撃もあったが、不動院が居合わせ、完全にねじ伏せ事なきを得た。

 不動院は密かに高子の身柄を移し、それを安奈含む紙屋連合の誰にも伝えていない。言わねばバレないからだ。


「不動院の姉貴。日輪会長の身柄についてはわかりました。姉貴が言うとるんじゃけえ、間違いはなあと思います」


 天満屋はあからさまに不機嫌な顔であったが、不満を飲み込んで言った。


「不動院の姉妹ェ。正念場じゃ言うんはわかっとる。ほんで今後のことはだいたい予想もつくで。白島会長をなんとか殺るつもりなんじゃろ? 事始めのリハーサルでよ」


 小網の予想が外れていて欲しかった。天神会側はおそらくもう、その対策も完了しているはずだ。そしてそうだとなれば、宇品はいよいよあとに引けなくなる。


「会長を……? 姉貴、そらほんまなんですか?」


 不動院は腕を組んで、何か思案するように押し黙った。天満屋も、宇品もその次を待った。二人にとっても、彼女の出方が未来を決めることになるのだ。


「白島会長には、我々紙屋連合は大恩ある身ですからねえ。世間もそのような逆縁は許さんでしょう」


「ほいでも姉妹ェよ。実際攻撃を受けよるのは違いなあで。指咥えてみよるわけにも……」


「逆ですよ。確かに白島会長を殺れば、紙屋連合はヒロシマのてっぺんに躍り出る。しかし、あれほどのカリスマを持つ彼女の死は、必然的に我々に対して無限に近い復讐かえしに駆り立てるでしょう。うまくはないですね」


「では、我々にゃあ何もできることはなあっちゅうことですか!?」


 眉根を寄せながら、天満屋はその場から立ち上がる。何もしないということは、座して死すと同義だからだ。


「はい。逆を言えば、する必要がないのです。事始めまでに紙屋連合が生き残れば、そもそも彼女らのメンツは丸つぶれです」


 何もしない。

 こくどうにとってそれは、消極的を通り越して無能の判断と言い切っても良かった。


「イモを引く言うんですか!? 姉貴、そらないで。今は病院送りくらいで済んどりますが、今に命取られますで!」


「一月二月のことじゃありませんよ。せいぜいが事始めまでの十日そこらの話です」


 不動院はそういうと、宇品に向かって笑いかける。


「それに、我々は絶縁だと言っておきながら、正式な回状も回してない。みなさんも知ってのとおり、絶縁状ともなると相談役を通して協会への申請が必要になるためです。我々の離反を突かれると、白島会長の今後にも関わってくるからでしょうね」


「それじゃあ、白島会長は……」


「手打ちの用意があると見るべきでしょう。我々にとっても好都合です。私も寺の娘ですのでね。丸く収まるならそれに乗ってしまいたい。せいぜい攻撃させて、天神会のメンツを立ててやればいい。宇品の姉妹も、それでいいですね?」


 その言葉に、宇品は安心していた。彼女も人の子である。こくどうとして腹を決めたのは間違いない。しかしそう決めたからといって、直ちに殺し合いだ裏切りだ、と舵など切りたくはない。

 安全でいられるなら、現状を維持できるなら、それで良い。

 だから、彼女は何も言わなかった。ああ、良かった、の一言で終えてしまった。

 宇品は頷き、それ以上の追求はしなかった。小網の姉貴には、不動院は日和ったと伝えれば良い。

 手打ちだ。手打ちしてしまえば、これまでのことはすべてチャラだ。それでいい。出世したかったのは真実だ。だが誰かを押しのけてまでそうしたいかと言われると、宇品にはそこまでの情熱はなかった。

 紙屋連合は睦連合であり、その会長とは天神会と異なり単なる代表である。白島のように絶対的支配者たりうることはない。

 もちろん、盃を直して日輪の子分になるというのなら別だが、白島が生きている限りそれはない。親を複数持つことができないのがこくどうのならいだからだ。

 つまり、手打ちによって紙屋連合は自然と瓦解し、まあ爪を一枚か二枚は落とすことにはなろうが、天神会に復帰はできるはずだ。

 希望的観測は、宇品の癖のようなものだった。小網から、こくどうを続けることすら危ういと断じられているにも関わらず、彼女は強引にそう思い込もうとした。



「ゆみ。ちいとお前にゃあ腹を割ってもらいたいんじゃがのう」


 天神会本部、元町女子学院生徒会室。ゆみにとってこの場所は恐怖の代名詞だったが、今は違う。隣には妹の悠がいて、ゆみもまた多くの修羅場を潜った。

 それでも、目の前の小網には頭が上がらない。今や天神会のナンバースリーだ。


「割れェ言われりゃ割りますが。何を割りゃあええんです」


「そらお前、わかろうが。次の会長の話よ」


「次? 話が見えませんが。白島会長は健康そのものですし、卒業後も続けると仰っとるじゃなあですか」


「お前がそう思うんならほうじゃろうがよ。じゃがお前、今の天神会は荒れよるで」


 ゆみの脳裏に、高子の顔がちらつく。確かに、紙屋連合の脅威はリアルだ。あぐらをかけば滅ぼされる。そうした中に天神会はいる。


「お前も、日輪と姉妹盃を交わした仲じゃろ。今も水に流しとらん(作者注・盃をなかったことにすること)。ちゅうことはお前、情もありゃあ愛着も沸いとろうが」


「姉貴。ワシャ姉貴とも盃交わしとります。日輪も姉貴も、その点じゃ変わらんですよ」


「ゆみよう。お前、ココアとコーヒーを一緒にするような真似してもろうたら困るで。ワシャ、日輪との話を聞いとるんじゃ。性根入れて答えぇや」


 別に誤魔化すような気持ちはなかった。

 なにより、高子とは事実上絶縁状態だ。天神会にいる限り、その事実は変えようがない。


「日輪は、確かにワシの舎弟でした。ほいじゃが今はあがあなことをやりよる。これまでどおりの付き合いはできんですし、しとらんです」


「ほたら話が早いわ。のう、ゆみ。ひとつここは静観といかんか」


 静観。妙な言葉だった。戦争の真っ最中に大幹部の一人が言う言葉ではない。


「はっきり言うとくが、わしゃあ今回の会長や若頭のやり方は好かん。日輪と戦争したいんは、会長だけじゃ。天神会を割って日輪の腰を叩いとる不動院も気に食わん。戦争やりたいんなら、相手を絶縁してからが筋じゃろうが」


「そりゃあ、そうでしょうが……ほいでも、ワシらは子分妹分でしょう。上の人らにゃ、従わンと」


「優等生じゃのう、ゆみよ。……そがあなことで上はいけんじゃろ、あ?」


「上行く行かんより、筋を通さんとこくどう張れませんで」


「ほたら何か? ワシが筋を通しとらんとでも言う気かいや」


 隣に座る悠の視線が、危険だと物語っていた。小網は長い髪に手櫛を通しながら、一瞬途切れた言葉の先を待っている。

 ほんの刹那の行き違いが、戦争を生む──それがこくどうの世界だ。沈黙が肯定と取られることもある。


「そうは言いませんわ。でも、戦争の是非は会長以外にゃつけられんでしょう」


 小網は一瞬だけ口端を苛立ちに歪ませると、ふうと息をつく。


「……わかった。ゆみ、お前もいっぱしのこくどうじゃの」


「恐れ入りますわ」


「じゃが、お前にゃあ言うとく。紙屋の姉妹を殺れェ言うたんは、会長じゃ。今更、日輪とどんな企みをしたか、なんちゅうんはもう聞かん」


 一瞬、ドキリとした。そうするように宇品を仕向けたのは日輪だが、もちろんゆみにもその原因の一端はある。


「勘違いすなや。言うたら、ちいと感謝もしよるんで? ワシはよ。紙屋の姉妹が、ワシを押し上げてくれた。詰まっとった上を押しのけたきっかけを作った。そしたら、やるしかなかろうで」


「何をやるんです?」


 悠が珍しく口を開いた。姉の不穏を感じ取っての行動だった。


「叔母貴。それはうちみたいな下っ端も聞いてええ話なんですか? 後ものうなりゃ、前に出るしかなあですよ」


「悠。やめえ。……姉貴、いや『小網の姉妹』。天神会執行部として、性根据えて聞かしてもらいますわ」


「おう。ほしたら聞かしたるわ。ワシはのう、宇品のアホを下したったんじゃ。ほいで、ヤツを天神会に戻すかわりに、不動院の命ァ奪れ言うてきた。紙屋連合はそれが済み次第『ワシの下に』入る」


 小網は自分の言葉に笑みを浮かべて、ソファに身を沈めた。


「会長と若頭は、紙屋連合を殺るのをやめん。もう止まらんじゃろう」


「どうあっても日輪の命奪ろうっちゅんですね」


「ほうじゃ。ほいでも、ワシやお前が動かんのなら、会長には手駒がおらん。準構成員でも三次四次団体のカスでも使わにゃ間に合わんじゃろうが。そんな中でお前、不動院んとことぶつかってみい。ただじゃ済まんで。あそこは筋金入りのこくどうが揃っとる。ぶつかりゃジリ貧になるじゃろ」


「……しかし叔母貴。なぜ不動院だけを?」


 悠は鋭く質問を続けた。


「紙屋連合の中でも、確かに不動院は厄介だとは思います。若頭の比治山が死んでから、常に彼女が指揮を取っとりますし、連合を動かしとるのも実質不動院ですから。ほいでも、紙屋連合の母体は紙屋会でしょうが」


「それも間違いじゃないわの。……あんなあ、寺の娘じゃ言うてひょうひょうとしとるが、腹ァ決めたら厄介なんじゃ。宇品が頭を張っとる時点で、今の紙屋会なんぞ怖くもなんともないわい」


「ほいでも、あんなあも元々は天神会でしょうが。宇品と一緒に戻してやれば……」


 小網は首を振って、ゆみの考えを否定した。


「それが甘いんじゃ、ゆみよ。ええか? 宇品は流されやすい人間じゃ。懐柔は効く。ほいじゃが、不動院は違う。あんなあ、気合入っとる。それに会を割ったこくどうが、いまさらノコノコ戻ると思うか?」


 紙屋連合の仕掛人はともかく、明確に戦争状態に突入させたのは彼女だ。仮に手打ちとなっても、不動院には居場所がない。

 そうでなくても、そんな危なっかしい人間を置いておく気がない、ということだろう。


「わかったか? 天神会を守るためにゃあ、ここは静観じゃ。不動院のことは宇品に任せりゃええ」


「つまり、天神会と紙屋連合の戦争には介入せん、言うわけですね」


「ほうじゃ。ついでによ、事始めでお前と日輪の盃、流したらええ。まあ、そこまで日輪が生きとるかどうかわからんがの」


 小網はふう、と一息つくと、おもむろに立ち上がった。言うべきことを伝えた以上、とどまる意味もないのだ。


「ほいじゃ、ワシの腹は割った。あとは頼むで」


 返事を待たず、小網はその場を去っていった。


「姉様。どがあにします」


 悠は体を向き直して、姉に改めて問うた。ゆみは迷っている。盃を直すのはいい。会長や若頭に賛同できない故に、抗争に介入しないという選択肢も、悪くない。

 親に牙を剝くのはこくどうにとって最大のタブーだし、ゆみ自身この抗争に正しさはないと結論つけている。

 ただ、彼女には日輪とケジメをつけておきたい気持ちがあった。単に盃を水に流すだけでは足りない。ゆみは天神会の人間として生きていくつもりだ。ならば、完全な決別をせねばならぬ。


「悠。頼みたいことがあるんよ」


「姉様が言われることなら」


 悠は向き直って、自分と同じ顔を向けた。


「日輪に繋ぎを入れるんは難しいじゃろう。なら、安奈に託す。姉妹分への最後のケジメじゃ」


「しかし、姉様。会うこと自体が利敵行為になりますで」


「覚悟の上じゃ」


 ゆみは立ち上がる。

 窓へと向かっていって、窓の外を見る。ぐちゃぐちゃの心でパズルするみたいに、ゆみは妹への言葉を選んでいた。


「ワシは天神会の幹部じゃ。どう転んでも──たとえ泥水啜っても、天神会を支える義務がある。ほいでも、こくどうとしてケジメをつけるのも必要なんじゃ。間違っとるのもわかっとる」


「日輪に、リハーサルの情報をリークするつもりなんですね」


 悠は言わんとすることを完璧に捉えていた。ゆみは喉元にかかっていた言葉を言わずに済み、小さく頷いた。


「ワシャ、一度は白島会長に取って代わろうとした。悪魔の取引じゃ。ほいでもまた取引をしてしもうた。裏切ったのはワシじゃ」


 悠を取り戻すためとはいえ、一度交わした盃を裏切るような行為だった。縦のつながりは、横のつながりより重い──こくどうの親子盃が、姉妹盃に勝ることを指す格言だ。

 だからといって、その盃を裏切ったことが正当化されることはない。

 ゆみの行為は単なるエゴなのだ。しかし、エゴを通すこともまた、こくどうとしてのあり方である。

 ゆみはエゴをもってケジメを成すと決めた。それがこくどうとしての自分を貫くための手段であると信じているからだ。



 ヒロシマ市内。不動明王会差配の雑居ビル内にて。


 「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ……」


 じゃり、じゃり。数珠が擦れる音が響く。それを聞いている女──こくどうが三人。

 不動院は小型の不動明王像──彼女の寺の本尊と同じものだ──に祈りを捧げていた。不動明王はいくさの神。彼女の一世一代の大博打のために、必要な儀式だった。


「不動院の親分……いつになったら白島の外道を奪らせてもらえるん?」


 黒髪をセンターで分けた女だった。その口元には八重歯が覗いており、目は憎悪に黒黒染まっている。右手は包帯でぐるぐる巻になっていて、三角巾でそれを吊っていた。


「うちは頭悪いけんさァ。我慢が効かんのよ」


「江藤さん。何度も説明したとおりです。確かに道龍会を壊滅に追い込んだのは紙屋会やうちの会長──日輪さんです。しかしそうしろと命じたのは間違いなく天神会の白島会長だ。道龍会の復活のためには、それくらいの返しをしなければ、世間は認めんでしょう」


「じゃけえさあ、早うやらせてェや」


 苛立った様子で江藤は唸る。道龍会は壊滅した──が消滅したわけではない。その残党はミヤジマ市では肩身の狭い思いをしている。特に江藤は、あの抗争で右手を切り落とされたことで離脱し、病院でその後の顛末を知ってしまった。

 不動院はすぐに彼女らに接触し、道龍会の後見をすると申し出た。

 不動院が白島に啖呵を切って直後だったこともあり、サンメンではそのことについて持ちきりだった。他に情報収集のしようもなかった江藤は漏れ聞いたそのような評判を信用し、不動院に賭けた。裏盃を交わして、不動院の思惑に乗った。

 即ち、白島の暗殺を請け負ったのだ。しかし、江藤は今や重症者を通り越し、日常生活も困難な状況である。いかに少数精鋭で鳴らした道龍会も、もはや他にまともな人材は残っていない。白島を暗殺するのは、このヒロシマで最も困難な仕事だ。できるわけがない──それも昨日までの話だった。

 年少が明けた幻のこくどうが二名いたのだ。


「江藤の姉貴。ねぇ〜いつんなったらさあ、その、なに? はくしま? ちゅうんとやらせてもらえるん?」


 大柄な女だった。手元で塗っていた血のように赤いマニキュアに息を吹きかけ、手をひらひら振る。黒詰襟にスカートの周道荒涼学園の制服をかっちり着込み、リトルリーグのユニフォーム──ヒロシマ代表の文字が刺繍されている──を羽織っている。ソファのそばにはバット。

 太ももの上には、これまた一人のこくどうが寝そべって頭を置いている。サイドに流した金髪の女で、その肌は健康的に焼けている。何をしているかと思えば、スマホを見ながらSNSサンメンを見ているのだ。


「アオちゃんさあ、ちょっと動かんでやあ。画面見づらいけん」


「ミオ。姉貴見よるで」


「今投稿しよるけん、待ってやあ」


 画面から視線を外さず、体を動かそうともしない。アオと呼ばれた女も、それ以上注意をするつもりもなかったようだった。もちろん江藤も。

 不愉快な連中だ、と不動院は思った。ナメている、とも。そしてそれは、こくどうにとって最大の侮辱にほかならぬ。


「でっかいのが山本アオイ。ヒロシマリトルリーグ時代に四番を打っとったもんです。ちさいのが、衣笠美桜キヌガサミオいうて、二人共うちの妹分です。こないだまで年少で一年以上も食らっとりまして」


「先に言うときますが、こちらからの支援はありません。あなた方で襲撃カチコんでいただくことになる。死ぬのは勝手ですが、失敗されるのは困りますよ」


 ミオは不動院の苛立ち混じりの言葉を聞いて、寝そべった猫が立ち上がろうとするようにぬっと体を起こした。


「姉貴ィ。こんなあ、ば〜りナマ言うとるじゃん」


 背中に手を伸ばして、柄を掴み、ぬるりと『それ』を取り出した。黒い革張りのそれは、まるで背中から生えているかのようだ。鞭であった。


「やめんさいやあ、ミオ」


「い〜やね。アオちゃん、こんなあ、元は天神会の外道じゃ。ちいとブチ回したりゃあ、立場言うんが分かるんと違うの」


 ミオは立ち上がると、鞭でその場の床を叩く。空気の壁を突き抜けて、恐怖が音となって不動院の耳をつんざいた。


「不動院の親分に失礼はやめえ!」


 江藤はきっぱりそう言って、言葉を続けた。


「……ミオはスポーツウィップ部の部長なんよ。とにかく、こんなあらの実力は、うちが保証するけん。現場にゃうちも行っちゃりゃあ、仕損じることもないけんさ」


「そうですか。それは良いことです。……ミオさんと言いましたね」


 不動院は笑みを見せて、ミオの方へと歩みを進めた。


「何?」


 呼ばれたミオは不機嫌そうに、鞭を巻き取っていた。彼女が一瞬目を鞭へ落とした隙を、不動院は見逃さなかった。床を蹴り、それと同時に高速のジャブを放ったのだ。風圧でミオの前髪がはらりと分かれていく。


「……ナメた口を吐くだけなら誰でもできますよ? せいぜい励みなさい」


 ふい、と踵を返して、不動院は部屋を出ていき、後ろ手で扉をぴしゃりと閉めた。


「バカタレが!」


 残った左手で、江藤はミオの頬を叩いた。不満げな表情を隠そうともしない彼女に、江藤はさらに詰め寄った。


「不動院の親分はのう、道龍会が途切れるんは惜しいちゅうて、チャンスをくれたんで!」


「ほいでも姉貴。ありゃあうちらをええがに使っちゃろう言うとるだけじゃろ」


「ほうよ〜。腹立つわあんなあ。うち、的にかけちゃるわ!」


 アオもミオも、その程度のことは理解していた。江藤も同じだ。だが、たとえ利用されているだけだとして、それを指摘して何になるというのだ。


「うちもお前らも頭よおないんじゃけえ、余計なこと考えんさんなや。うちらがやるんはのう、白島を殺ることだけじゃ」


 言葉に出した途端、失った右手首に鈍く痛みが走った。恨めしい。親姉妹を殺した天神会が、それを率いる白島が憎い──と江藤は思い込もうとしていた。

 すべては建前だ。

 本当に道龍会会長の金本を殺したのは紙屋連合の日輪だ。だが、幻肢痛ファントムペインが江藤を苛む度に、自分には流れに逆らうほどの器量はないのだ、と思い知らされる。

 不動院が用意した流れに乗るくらいしか、今の彼女には復讐──少なくとも世間に示せるケジメのこと──を成す道はない。

 だからこの流れに沿う。それが利用され、破滅へと舗装された道だとしても、今の彼女にはそれ以外の方法がない。


「こがあなとき、どかあに言うんじゃったっけ……」


 わからない。何も浮かばない。国語の授業をちゃんと受けておけば良かった。そんな後悔すら、幻肢痛が思考を塗りつぶしていく。

 この脳を掻きむしるような幻肢痛いたみを慰めるためなら、江藤はどんな悪魔の誘いでも乗るだろう。

 それはもはや、復讐でもなんでもなく──周囲を巻き込んだ身勝手な『治療』にほかならなかった。


つづく

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