第七話 わたし、ここにいていいんですか?

 平手打ちはいうほど痛くない。しかし痛そうにしていないと逆に怒りを買う。

 高子は頬を赤く腫らしていた。甘んじて長楽寺の怒りを受けたのだ。昨日盃をやった姉妹分が、いわばその姉貴分に当たる安東を殺したのだ。まるで早速顔に泥を塗りたくるようなものだ。当たり前の怒りであった。


「……誰が安東を弾け言うたんなら。お?」


 祇園会部室。会長代行のゆみは数度高子を殴ったが気は晴れない。気が気でない。

 現在のゆみの地位は天神会直系小網会舎弟頭である。小網の跡目は子分に渡すのがこくどうのならいであるため、出世の目は上部組織である天神会の直系、白島の子分になって組を持つ他ない。

 祇園会代行も、そうした布石の一つであった。それなのに、日輪高子はそれを完全に握りつぶしてしまった。


「ワレ! 安東のクソボケをワレが殺る理由がどこにあるんじゃ!? お? ようもの考えてモノ言わんかいや!」


「姉貴。そら道理が通りませんで」


 御子が出したティッシュで、わずかに切れた口の中の血を拭いながら、高子はうんざりしたように言った。


「ワシは姉貴のために殺ったんで?」


 こくどう同士の争いの結果、どちらかが命を落とすことになったとしても、協会に対して報告があれば問題ないことになっている。

 事前報告が大前提だが、例外もある。それは、筋が通っているか否か──こくどうとしての行動に筋を通した結果、相手の命を奪うことになったとしても、事後報告をすれば罪に問われることはない。

 この前提は、外部団体──高子がかつてそうしたように、祇園会の人間が天神会の人間を報告なしで弾くような場合は適用されない。抗争デイリ(作者注・非公式試合とも言われる)の火種になるからだ。

 その場合は協会が仲立ちして手打ちを行ったり、主犯者を年少送りにして自体の収拾を図るのだ。


「長楽寺の姉貴は天神会のこくどうですで。ほしたら、わしゃ天神会のこくどうとして安東が悠さんに悪さしよるのを見捨てておれんでしょうが」


「そがあな理屈で済むかい! 大体、わしゃ会長にどがあに説明したらええんじゃ! お前も、こがあなこと知れたら、祇園会の立て直しなんぞ──」


「姉様。……日輪に助けられたのは事実です」


 ソファに腰掛けて、押し黙ったままだった悠が口を挟んだのは、ゆみにとっては予想外だった。


「事実じゃけえなんじゃあちゅうんじゃ」


「つまりは、私の失態をいくらでもバラせるいうことですで。……それは、姉様にとってマイナス。会長のお怒りを確実に買います」


 包み隠さず出された事実に、ゆみは口をつぐむ他なかった。安東をコントロールするために、悠を差し出したのは紛れもない事実で──日輪とその子分共は、それを目撃している。

 白島会長はどう思うだろうか?

 彼女は、安東をうまく操縦していると思っているはずだ。代行もうまくやれていると。

 それを、いつか排除してくれようと考えている宿敵によって、全て台無しにされたと吹聴されたら?

 人の噂に戸は建てられず、こくどうはメンツで生きている。

 こくどうの中でも、女の体を使って事を為すのは外道も外道。場合によっては破門である。それをゆみが指示したとしれたら。


「ワレ……これが狙いかいや?」


 ゆみは高子を睨みつけた。一方の高子は涼しい顔だ。笑みさえも見せず、余裕すら感じられる。

 手を出す? 始末する? 上等だ。すぐにでもやってやる。

 しかし対外的には──高子はゆみの姉妹分である。それを処分するともなればそれなりの筋というものが必要だ。そうなれば、安東のことを蒸し返さねばならなくなる──。


「長楽寺の姉貴。なあんもなかったんよ」


 高子はさらりと言った。それが正しいのだ、と諭すように。それに応じるように、御子も続けた。


「そうです。ワシも、ここにいるゆりも、安奈も──なあんも知りません。安東は誰かに撃たれてただ死んだ。まあ、代行にゃそれなりの工作はしてもらわんといきませんが」


「バカタレが……」


 拒否権はなかった。出世の道筋は見えている。そこから降りるつもりもなければ、降ろされる気もない。


「長楽寺の姉貴。……ま、ええじゃないの。ワシは一回行ったとこじゃけえ、二度も三度も変わらんのよ。ケジメつけに行けえ、言うんなら、年少行きますけえ。姉貴にゃ迷惑かけるが……」


「そがあなこと、できるわけなかろうが! ワシがわざわざお前を姉妹分にしたんが、ケツ拭かせるためみたいに見えるじゃろうが!」


「姉様。……もうええでしょう。元々、安東の話はワシが勝手にやったんです。姉様や──日輪にケツ拭かせるわけにはいきません」


 悠はそう呟くと、自らの右手を机に叩きつけた。身じろぎ一つ、誰もしなかった。その後に起こることが──安奈を除いて──わかっていたからだ。

 悠はスカートの中──太ももに通したベルトにつけていたドスを取ると、木鞘のそれを抜き払い、ぎらりと刃を光らせた。

 そして、ためらうことなく小指──その爪の付け根に刃を突き立てた!


「実行犯の爪出して、自首させりゃ──安東の件はカッコがつきましょうで」


 刃の切っ先が指から爪を引き剥がし──血染めの小指の爪がテーブルに転がった。御子は黙ってポケットからポーチを取り出すと、絆創膏を彼女に差し出した。


「さすがは長楽寺の姉貴の妹分ですのう。……わしら、よおけ覚悟見さしてもらいましたわ」


 高子は茶化すことなく、悠の目を見据えて言った。それは心からの言葉だった。女を張る稼業であるこくどうは、どのような立場であれその覚悟を尊重するものなのだ。


「……こくどうにとっちゃのう、小指の爪を落とすんは、土下座以上の意味があるんじゃ。よお覚えとき」


 固まったままの安奈を肘で小突きながら、ゆりが解説を入れた。


「ほいじゃ、姉貴。日輪。しばらく留守にしますけえ」


 あまりにあっさりとした発言に、ゆみは何も口を挟めなかった。留守にする。つまりは自首するということだ。

 自分でケジメをつけると言い切った妹に、かける言葉はなかった。ただ見送るだけだ。

 彼女が退出した後──ゆみは妹が飛ばした爪を、白いハンカチで包んだ。あまりに軽く──そして重い爪であった。


「日輪。……この爪は、お前が飛ばさせたんで」


「よお分かってます」


 言葉で取り繕うような段階は、とうに超えていた。ゆみは日輪の事を許すことなどできない。それと同じように、ゆみのことを白島会長は許さないだろう。

 安東の存在は、天神会とゆみにとってそれほど都合が良かったのだ。そして、ゆみと高子の間には、埋めようのない溝が生まれてしまった。


「日輪の。殺ってしもうたんはもうどうしようもないわ」


 ゆみは絞り出すように、時間をかけてなんとかそれだけを述べた。血を吐くような言葉だった。


「じゃが、祇園会の件は、ワシの派遣も含めて白島会長の段取りよ。……当然、お前との盃を報告するついでに、ワビを入れにゃならん」


 まるでタイヤが空回りするような気持ちだった。盃をやった高子の手前、ゆみは姉らしくあらねばならなかった。


「姉貴、そりゃワシも同じ気持ちですわ。当然、お供させてもらいます」


「当たり前じゃ、バカタレ。……せいぜいよお首洗っとけや。わりゃ、五体満足で帰れる思うなや」




 御子とゆり、そして安奈は、部室から追い出された。ゆみと高子は、今後のために話し合いを行うと言うのだ。

 三人は行き場所を失って、なんとなく屋上に上がった。ゆりが三本、缶コーヒーを買って来てくれて、無言のまま渡してきたのを、安奈もまた無言で受け取った。


「……安奈。こくどうの世界がちいたあわかったか」


 御子はコーヒーを煽りながら、屋上のフェンスにもたれかかりながら言った。


「……正直、よくわかりません」


 命のやり取り。責任のとり方。その理由。こくどうたちの生き方は、安奈のこれまでの人生とは、まったく異なるメカニズムで動いていた。

 それを学ばねば、安奈は一人のままだ。それは恐ろしいことだった。それでも。

 安奈は缶をぎゅうと握りしめる。それでも、みんなと一緒にいたい。

 彼女らが何か言ったわけでも、約束したわけでもない。それでも安奈の中では、あの日、みんなでお好み焼きを食べた暖かな記憶が残っていた。非情なまでの身勝手な理由で、安東先生の命を奪ったとしても、なお。


「……わかった。ほしたら、この後姉貴に頼んで、盃交わしてもらう」


 まってました、とばかりに膝を打ったのは、ゆりであった。


「ほいじゃ、わしは安奈の姉貴分じゃの。御子の姉貴は──」


「それじゃがの。わしも日輪の姉貴に盃を直してもらおう考えよるんじゃ」


「御子さんは、高子さんから盃を受けてるんじゃないんですか?」


 安奈はそう首を傾げたが、逆に御子は頭を振った。


「盃にも色々種類があるんよ。わしは今、日輪の姉貴の舎弟分じゃ。ほいじゃが、姉貴はドサクサで祇園会の跡目狙うとる。ほんなら、子分として姉貴を支えたい思うとるんじゃ」


 跡目。意味はよくわからないにしろ、目的はわかる。長楽寺ゆみを差し置いて、自らが祇園会の会長となるというのだ。

 ゆりはそんな未来予想図に驚きと興奮が隠せないらしく、ずいと前に出て言った。


「さすが姉貴……!ワシャ、御子の姉貴についてきますで。日輪の姉貴に──いや、オフクロに子分にしてもらいますわ!」


「わたしも、その──子分にしてもらえますか?」


 安東の死が、苦い味でいっぱいになった口内が、電流のように一瞬脳裏をよぎり、やがて消えた。

 ゆりの興奮に飲まれたのかもしれなかった。なにより、四人でいられるための方法にしがみつくのに、安奈は必死だった。


「おう。姉貴にいうとくわ」


 御子はそう言って──安奈の右頬を張った。あまりにも突然のことだった。視界がぐらついて、遅れて後から鋭い痛みがやってくる。

 訳が分からなかった。


「え……? なんで? えっ?」


 困惑する安奈の左頬を、御子は再び無言の内張った。今度はショックが勝って立っていられず、コンクリートの上に尻もちをついた。


「痛いか、安奈」


「痛い……えっ? なんでですか?」


「ゆり。ワレもじゃ。……ヤキ入れんかい」


 名指しされたゆりは、少しだけ動揺の色を見せたが──すぐにその色は消え、安奈の胸ぐらを掴み引き起こし、そのまま頬に二発入れた。口の中に金臭い匂いが広がる。

 混乱していた。

 なぜ自分がこのような仕打ちを受けるのか、全くわからなかった。

 しばらく殴る蹴るの暴行が続き──丸まった芋虫みたいに身を固めるのは、惨めだった。


「安奈。痛いか」


「いたい……です」


「こくどうになるんじゃろ。こくどうもんはのう、そういう世界なんじゃ。理屈なんぞ通じん。親や姉貴分の言うことが全てよ。ワシやゆりがヤキいれたんも、そういう事じゃ」


「でも……」


「異論は挟ませんで。ほいじゃがの」


 御子はようやく芋虫状態から身を解いた安奈に、手を差し伸べた。


「姉貴分としてなら、わしゃいくらでもケツ持ったるで。もちろん、日輪の姉貴も同じ気持ちじゃろう。……わしらは上下はあるが親姉妹と一緒じゃけえ」


 顔を上げて御子とゆりの二人と目があった時、不思議と湧き上がってきたのはじいんとした感動だった。まるで心が直接揺さぶられるようだった。

 安奈の胸の内にあったのは、これで仲間になれたという感動と感謝──それらが心の中で、池に水滴を落としたように波紋が広がり、震えさえ覚えた。


「ワシらは姉妹じゃ。のう?」


 安奈は御子の手を取り、立ち上がった。新しい人生が始まったような気がした。

 もう一人ではないのだ。

 どんなに苦しくても、悲しくても──姉妹がいる。


「私、頑張ります」


「おう、その意気じゃ!」


 ゆりが背中を叩いて安奈が立ち上がるのを助ける。


「ところで姉貴。日輪の姉貴は……?」


 軽やかに階段を叩くような足音が近づいてきていた。御子にはそれが、高子のものであることに気付いた。うまく行った時はいつもこうだ。


「おう、長楽寺の『姉貴』とは話がついたで。……天神会の本部、元町女子学院に殴り込みカチコミじゃ」


 屋上の扉を開け放ち、満足げに笑いながら、高子は宣言した。子分になると決めた三人のうち、御子とゆりは目を丸くした。

 天神会の本部、元町女子学院はまさしく伏魔殿。会長の白島以下、幹部はイケイケのツワモノ揃いだ。蟻地獄の中に飛び込んでいくようなもの──最悪、闇から闇へ、全員葬られる可能性すらある。


「あのう。何しに行くんですか?」


 遅れて、安奈が子首を傾げた。事態がいまいち飲み込めていない彼女の肩を抱き寄せながら、高子はなおも笑みを見せた。


「そら、話し合いよ。白島会長とは、知らん仲じゃないけえ。ほうじゃの……安奈、お前一緒に遊びに行かんか」


「えっ、いいんですか?」


 パシャリ。頭上で高子のスマホが瞬いた。彼女は画面──姉妹撮りを見せた。


「話は聞いとった。御子、ゆり。お前らもワシの子分になる言うんじゃろ。安奈は末っ子になるわけじゃ。……ほしたら、ちいと社会勉強の一つやらせちゃらんといかんけえ」


「それで、天神会に連れて行くんですか? いくらなんでも無茶と違いますか」


 高子はスマホをもったままひらひら手を振った。


「大丈夫じゃ。そもそもわしらは天神会所属になっとるんじゃし、なんせわしらにゃ長楽寺の姉貴がおるけえ。あん人は出世する。出世『させる』。ほしたら、白島会長殿も文句は言えんわい」


「その前に、消しにかかって来たらどがあにするつもりです。白島は並のこくどうと違いますで」


 御子の脳裏に浮かんだのは、あの雨の日に見た白島の姿だった。雨の中、自らも血を流しながら──安佐会長を射殺した白島。それは御子にとってすすぐべき屈辱であり、恐怖の象徴であった。


「ワシに任せえ。……ええがにしちゃるけえ」


 高子が不敵に笑ったのを見て、御子達は不思議と安心感を覚えた。この人についていけば大丈夫だとふいに思ったのだ。根拠なんか無い。無鉄砲なまでの日輪高子を信じよう、と。


「わたし──高子さんと、御子さん、ゆりさんと──一緒にいていいんですか?」


 安奈に至っては、ふいに頬を涙が伝い、やがて止まらなくなった。ここにいていい。一緒にいていい。

 父親からも、誰からも──明確にそう言われなかったまま過ごしてきた彼女には、それは許しであり、救いだった。

 高子は安奈の肩から頭に手を伸ばし、彼女を抱き寄せ──笑いかけた。


「アホ言うなや。子分に初っ端から出てけ言うやつはおらんわい。じゃけえ、泣くな。こくどうもんは、親ァ殺られても泣かんのんじゃ」


 それでも、安奈は泣いた。初めてできた姉妹達に囲まれながら、泣いた──。


続く

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