第六話 こくどうは容赦を知らないんですか?

「悠ちゃん、もっと顔をこっちに見せんさいや……」


 散々なぶられた後、暴力まで振るってくる。彼女の自尊心のようなものが、そうでもしないと満たされないと知ったのは、そう昔のことではなかった。

 ヒリヒリと痛む頬と、踏みにじられた誇りが、いつも悠を苛んだ。

 そうして歪んだ顔を様々な角度からみるのが、安東の趣味だった。


「かわいいねぇ。うちとしてはもっとぴいぴい泣いてもろうたほうがええけどねえ」


 投げ捨てるようにソファに向かって手を離し、安東はドレスシャツを身に纏うと、ボタンを留め始めた。


「……今日はもうええわ。帰りんさい」


 ぞんざいにそう言うと、彼女はこちらに背を向ける。

 こくどうとしては屈辱的ではあったが、リターンとしては十分だ。悠にとっては好都合だった。こんなことは今だけだ。ゆみが上に行けば、舎弟である悠も上へ行ける。しかし今、下っ端のこくどうにできることなど少ない。

 姉のゆみは自分と比べて、決めにくいことを即断できる。優秀だ。こくどうにとってそれは一番の武器だ。

 自分のように、図体だけ大きなでくのぼうとは違う。だから信じられる。そんな中で自分ができることはこんなことだけだ。だからこれでいい。

 いつかゆみが上に行って、こいつを殺せと言われれば躊躇はしないが、いまは違う。

 だからいい。どうでもいい。それでゆみが偉くなれるなら、自分などどうなっても構わない。


「長楽寺の姉妹にもよおけ伝えといてねえ」


 安東の声が遠くから響いてくる気がした。どうでもいい。

 悠が退室しようとソファから床に足をおろした瞬間、激しく扉がノックされたのはほぼ同時だった。

 すでに夜八時。他の教員は帰宅し、ここは校舎裏体育館の生徒指導室だ。裏側は山となっており、訪ねようと思わねば訪ねるものもない。安東は激しく動揺し、とりあえず悠にシーツを投げ渡してから、扉越しに尋ねた。


「……誰ね?」


「安東の叔母貴。ワシです。日輪です」


 ドキリとした。

 安東はメガネを押し上げると、一息だけ深く吐いてから、返事をした。


「な、なんね。日輪、あんたこがあな時間にどしたんね。帰る時間じゃろ」


「いや実は、折り入って叔母貴に話があるんですわ。ワシも年少明けて出てきたばっかりですけえ、挨拶もしてないのもおかしな話ですけん、こうして寄せてもらいました。夜遅くに迷惑じゃとは思うたんですが」


 大迷惑だ、バカタレ。そう言い切ってしまっても良かった。とにかく今はまずい。


「ひ、日輪の。申し訳ないんじゃけど、今それどこじゃのうてねえ。片付けて帰るとこで、構うとる時間が無いんよ。また明日でも──」


「叔母貴。ワシゃ、今話したいんよ。別に長々話すつもりはないですけえ、ちいと顔だけでも見しちゃもらえませんか」


 彼女の出方はよく分かっている。厄介だ。些細なことでも考えを曲げず、筋を通そうとする。──その一方で、その筋を通すためなら、手段を選ばない。正しいこくどうのあり方があるとすれば、それは日輪高子のことを言う、と言い切って良いくらいだ。

 その日輪が、こんな時間にどうしても顔だけでも見たいという。どう考えても何かある。

後ろを見ると、悠が動揺しているのが見て取れた。長楽寺の姉妹が裏切った? 考えられない。安東と彼女らは一蓮托生だ。しかもよりにもよって日輪と結託するメリットがない。

 そうなると、日輪に何か企みがあるということになるだろう。

 いずれにしろマズい。この状況でごまかしはきかない。

 散々悩んだ結果、安東が選んだのは、少しだけ──それこそ顔を覗かせる程度だけ、扉を開けるというものだった。


「なんね、日輪の」


「叔母貴。随分ご無沙汰しとります。ほんで、ちいと話があるんですがのう」


 日輪はそう笑うと、下ろしていた手を胸の当たりにまで上げた。銃が握られている。

 空気の重苦しさと、長年こくどうとして修羅場を潜った安東のカンが、扉を閉めるよう行動させた。

 しかし閉まらなかった。

 銃のバレルと、日輪の足が扉の間に挟まっている。

 ネジこむ気だ。開けたのは完全に間違いだった。扉を開けさえすれば、入り込む自信があったのだ!

 銃に面食らったのも良くなかった。扉は容易に蹴破られ、日輪の後ろに数人の──よく見知った顔があることに気がついたときには、何もかも遅かった。


「叔母貴ィ……挨拶は大事なんじゃけえ、ちゃんとさせてくださいや。こがあな乱暴させんでも済む話じゃろ?」


 日輪はわざとらしくそう言って、獰猛な笑みを見せた。




 二日前。

 鯉柱での食事会の後。四人は祇園駅に併設されているバスターミナルで別れることにした。


「日輪の姉貴はゆりと同じバスですか?」


「おう。……安奈はどのバスじゃ? それともアストラムか?」


「私、アストラムラインです。本通り方面で──」


「ほしたら、御子と同じじゃの」


 高子とゆりがバスに乗ったのを見送ってから、安奈は御子と二人でホームに上がった。

 薄暗いホームの中、顔を合わせたばかりの御子と二人。気まずい。安奈は少し距離を取りながら、早くアストラムラインが来ないかと願っていた。


「のう、安奈」


「ひゃい!」


 突然話しかけられたものだから、変な声が出た。


「姉貴はのう。こくどうじゃけえ、筋は通す。その姉貴が、お前の人生狂うっちゅうた意味、よう考えてもらえんか。安奈」


「それって──」


 ホームにアストラムラインが滑り込む。圧縮された空気が吐き出され、車両ドアが開いた。


「二度は言わんで。安奈、よお意味を考え。ほいで、決めろ」


「私、皆さんの仲間になりたいだけで──」


 御子の背中が、やけに遠く感じた。すぐそこにいるのに。声がかけられる距離なのに。安奈のとった心の距離ではないことだけは確かだった。


「安奈。もう一つ言うとく。ワシらは、その気持ちで命をやり取りするんじゃ」


「命って──」


 車両の中はまばらどころか、人がほとんど見当たらなかった。モーター音が低く唸っていて、暗闇の中に何かが潜んでいそうな気がした。


「ほうよ。ワシらは命懸けよ。そんなことのために取ることもあるし、取られることもある。東京じゃ考えれんじゃろ」


「──冗談、ですよね? 昼間だって、拳銃向けてましたけどアレだって……」


「オモチャじゃと思うたか? こくどうがそがあなもん持つかい」


 御子の目は、安奈の考えを無言のうちに否定した。


「こくどうはの、親がカラスを白じゃ言うたら、そうじゃちゅうて肯定するんじゃ。相手を殺れ言うたら殺る」


 考えられぬことを聞いているような気がした。まるでどこか遠くの国の、聞いたこともない言葉を反芻するようだった。


「正直のう、お前に盃やるんは、反対なんよ」


 御子は流れていくまばらな光を見ながら、ぽつりと続けた。


「お前みたいなんが、目の前で死ぬかもしれん。ワシが止めにゃ、そうなるかもしれん。──なら、ワシが反対するしかなかろうで」


 それがどれだけの勇気だったのか、その時の安奈には分からなかった。安奈はアストラムラインの窓の外を見る。ヒロシマの光がまばらに目に飛び込んでくる。

 安奈にとって、高子は光だ。もしかしたら自分をどこか知らないところへ連れ去ってくれるのではないかという希望だ。

 だから、彼女が望むなら。こんなわたしができることなら、応えたいと思ったのだ。


「……御子さん。わたし、こくどうのことはよくわかりません。でも、高子さんをわたしが助けることができるなら──何かわたしにできることがあるなら、したいんです」


 それは嘘偽らざる安奈の本音であった。御子はこちらを一瞥し──どこか諦めたような表情でため息をついた。


「……ほうか」


 何か言いあぐねている様子だったが、御子の目的地の駅──中筋駅についてしまった。

 ほっとした気持ちがなかった、と言えば嘘になるだろう。安奈の勇気は空っぽだったし、もう出し切ってしまった。これ以上なにか言われても、うまく返せたかどうか。


「じゃあ、また明日」


「はい。お疲れです」


 御子の後ろ姿が遠くなっていく。

 力が抜けた──座席に座り込むと同時に、安奈は考える。

 親が殺れと言えば、殺る。高子は必要とあらばそう言うのだろうか? そして、自分はそんなことにすぐ納得できるのだろうか?

 あまりに現実離れした問い掛けを繰り返すことしかできなかった。



 ──そして現在。

 安東は追い詰められたことで逆にスイッチが入り、銃口も諸共せずソファに腰掛けてふんぞり返った。


「何が挨拶ね。どうぐ持ってなにを挨拶することがあるんよ。アホも休み休みいいんさい」


 高子達は、シーツにくるまった悠の姿を見て少しだけ笑みを見せた。


「叔母貴。今回の挨拶っちゅうんはの、盃のことなんよ」


「盃? そういや長楽寺代行もなんじゃ言うとったねえ。下ろしてもろうたんじゃろ、盃を」


 高子はわざとらしくしげしげと握っていた銃を眺めてから、机に置いた。


「おお、ほうよ。たちまち姉妹撮りじゃが、長楽寺とわしゃ姉妹分っちゅうことになった」


「そうなん。そりゃ良かったねえ。ほいじゃ、うちはもう帰るけえ、あんたらも帰り──」


 安奈は見た。相談役の言葉に合わせて一歩前に出て、ブレザーの裏にマウントしていたドスを抜き払い、机に突き立てるゆりの姿を!


「なんて言われました? すんませんのう、耳が遠うてよお聞こえませんわ」


 しかし、安東もまた歴戦のこくどうである。開き直った彼女は、その程度ではビクともしない。


「若いもんの教育はちゃんとせんといかんよ」


「年少出たばっかりですけえ、勘弁してくださいや。ほいで、叔母貴。わしゃ長楽寺の妹分で──そこにおる悠さんは姉貴分になるんよ」


「ほうね。それで?」


「……安東の叔母貴。まだわかりませんかいね」


 しびれを切らした御子が、諭すように話を切り出した。


「姉貴分のこくどうの恥を、妹分が──日輪高子が見逃すと思いますか?」


 ほんの瞬きの間の静寂の後──机の上のドスと銃に、こくどう二人が手を伸ばした。

 ドスのほうが早かった。刃は相手の手の甲を貫いた。机に縫い付けられた安東は、溢れ出る赤黒い血が、彼女に憎悪の炎が灯ったのを否応なく感じさせた。


「いっちょ前に睨んでから。姉貴の弱みにつけ込んで、女漁りとは笑わせるで」


 高子はそう吐き捨てるように言って、安東の手を離れた血まみれのリボルバーを手に取る。

 片手で握り、頭に照星を合わせる。


「わりゃあ、うちは祇園会の相談役よ? 分かっとんか! うちが相談役で無うなったら、祇園会はおしまい、長楽寺も下手打って先ものうなるんで!?」


「ま、それには抜け道があってのう。会の相談役が死んだ場合、会長が代行できる言うルールがあるんよ。知らんかったんか? ……それにのう。わしゃ長楽寺ゆみの姉妹分じゃけえの」


「それが……それがなんじゃいうんよ!?」


 高子はドスの柄尻に足をかけ、安東の動きを許さない。苦痛に顔を歪ませる彼女を見る目は冷たかった。


「わからんかや。祇園会はあくまで仮……長楽寺ゆみの姉妹分言うことは、わしゃ天神会のこくどうじゃろうが。祇園会の外道の味方はせんでええじゃろ?」


 安奈は重苦しい空気を感じながら、高子の背中を見ていた。鉄と埃の入り混じった匂いが鼻をつく。

 これは、命が散る前の匂いなのだ。御子の言葉が安奈の脳裏をよぎった。

 高子は人を殺す。そして必要ならばそれを命じる立場で──安奈もそれに続かねばならないかもしれないのだ。


「安奈」


 見透かしたように、こちらを見もせずに高子が口を開いた。


「ここがお前の人生の分かれ道で。……外へ出ればただの女子高生のままで暮らしていける」


「高子さん」


「残りゃあ……ワレも立派なこくどうもんよ」


 銃口が安東の額にめりこむ。金属の冷たさが彼女の生存本能に火を点けた。


「や、やめんさい! カタギの子を巻き込んで、恥ずかしゅう無いんかいね!」


「悪いが、会をまるごと売って女を食いものにするよりはマシじゃと思うとるよ、安東センセ……」


「ま、まちんさい。うちが……白島会長に祇園会の跡目をあんたにする言うて、ねじこむけえ! うちはあんなあとツーカーじゃけえ、会長にすぐ話をもってけるんよ!」


 高子は歯を見せて笑った。それは侮蔑と愉悦が混じった乾いた笑いであった。


「そりゃ大したこっちゃのう。……そのまま抱えてのう、その話、あの世で白島にしちゃれや。あんなあも、逝くのが楽しみになるじゃろうで……」


 ただ一発の銃弾が、火薬の匂いと共に、安東の脳内を蹂躙した。

 彼女は死んだ。

安奈は転がるように外へ飛び出すと、そのまま戻した。

 人が死んだ。

 高子が、自分が好きだと思った人が──一緒にいたいと思った人が殺した。

 ショックだった。散々警告されていた上でも、どこか理解できていない自分がいた。

 安東はもう生き返らない。ぐるぐる回転する視界と思考。

しかし、もう後には戻れない。

 高子はこくどうとして、自分を認めてくれた。一緒にいることを、許してくれた。

 それでも、この胸の不快感は──人の死をこの目で見逃した事実を、無視することは出来なかった。

 安奈は地面と自分の中身の入り混じった匂いを感じながら、涙を流し続けた──。


続く

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