閑話
クマのぬいぐるみ
「アインス」
「おや、お嬢様。いかがなされましたか」
「……シエラの具合どう?」
昼下がり、とても良い空気が医療室の中へ入り込んできた。
ドア前で部屋の中を覗き込むお嬢様が、小さな声で話しかけてくる。
申し訳なさそうにしているところを見ると、シエラ殿が寝ているとでも思ったのだろう。
「元気ですよ。今、トマ……おっと、アインスに包帯を変えてもらったばかりです」
「そう。化膿は?」
「今のところ、腹部と膝付近くらいですね。他は、化膿することなく瘡蓋を作っている最中です」
「……シエラ、もう少しだから頑張ってね」
「はい! 以前より痛みが少なくなってきましたから、かなり楽です」
「良かった……」
お嬢様は、入ってくるなり真っ直ぐシエラ殿のところへと駆けていく。
自身もふらついているというのに、このお方は。車椅子を使えと言っても、聞きやしない。こういう頑固なところは、以前のベルお嬢様にそっくりだ。
そんな姿を横から眺めていると、ホッとしたような表情をしたお嬢様が見えた。
「アインス、ありがとう」
「私は何も。シエラ殿が耐えたからです」
「ええ、そうだけど。アインスも居なきゃそれはできなかったわ。私なんて、包帯を巻くことすらできなかったんだから」
「はは、あれは傑作でしたなあ」
「え、なんの話ですか」
「ちょ、や、やめて! 話したらダメよ!」
今はもう必要ないが、お嬢様が誘拐されて怪我をした時のこと。
額に包帯を巻いていると、「自分でできる」と急に言い出してな。試しにやらせてみたら、予想以上、いや、それ以上の不器用さで、額に巻くはずの包帯をなぜか腕に巻いていたんだよ。流石に、アレは笑ってしまったなあ。
聞けば、「アインスの負担を減らしたくて」とのこと。彼女なりに色々考えているのだろう。
今回のシエラ殿のことだって、屋敷に運んで数日は、高熱にうなされた彼の側を離れなかった。どうやら、本人の意思を無視して助けてしまったことに罪悪感を覚えているとか。
震える手を、眠っているシエラ殿の鼻上へ持っていき「良かった、生きてる」というのを5分置きに繰り返しているお姿は、見ていて心苦しかった。
なぜ、ここまで他人を気にしているのだろうか。
心の内に秘める何かが彼女をそうしているのだろうが、私はそれを取り除けない気がする。なぜか、そう思うんだ。
「ははは。では、シエラ殿が元気になられて、まだ覚えていたら話しましょう」
「よし、絶対忘れないぞ」
「ちょっと! アインス! え、あ、シエラも笑わないでよう……」
今のお嬢様は、ちょっとだけあの子に似ている。
自分の許容範囲を超えているのに、なお、頑張るあの子に。
そう。
今、視界に入っている薬棚にある、クマのぬいぐるみの持ち主に。
***
あれは、寝たきりだったお嬢様の目が覚めて数日後だった気がする。
あまり覚えていないが、多分そうだ。
「アインス、お熱が出ました」
いつも通り医療室で包帯を整理していると、そこにイリヤが入ってきた。
他にもやることがあったが、お嬢様が目覚めたことに……というより、記憶喪失だったことに動揺してしまいそんないつでもやれるようなことをしていたんだ。お嬢様の専属メイドであるイリヤが入ってきてちょっとだけ罪悪感を覚えてしまった私は、持っていた包帯を急いで机の上に置く。
……が、その罪悪感はイリヤの顔を見てすぐに消える。
「顔が真っ赤じゃないか! エプロンだけ取って、そっちのベッドに寝なさい」
「うん……」
「熱は……っつ!? また無理したな?」
「……だって、お嬢様の様子が」
「命に別状はない。記憶なんて、後からいくらでも回復するから」
「でも……、なんか違くて」
ゆっくりとした動作でエプロンを外しているイリヤの額に手を当てると、熱湯の入ったコップに触れているような熱さを与えてきた。予想以上の体温に声を荒げると、しゃがれた声が返ってくる。
しかし、今はそんな言い訳を聞いている時間はない。イリヤから離れた私は、そのまま薬箱を漁り解熱剤を取り出す。あと、飲水も必要だな……。
とはいえ、彼の感じている違和感を否定する気は起きない。
医学的なことを踏まえたとしても、お嬢様の様子はすっかり変わられてしまったのだ。あれは、記憶喪失というより……いや、憶測で物事を口にするのはよろしくないな。弱っている人に不安材料を与えてどうする。
そんなことを考えていると、背後ではかろうじて動いているような、モソモソとした音が微かに聞こえる。振り向くと、ベッドへ身を潜らせている最中のイリヤが。
あれじゃあ、いつまで経っても横になれんだろう。
「掴まりなさい」
「うん……」
「お嬢様の記憶がショックだったのか」
「……うん」
差し出した腕にしがみついたイリヤは、そのまま身を預けてきた。
お嬢様ほどではないにしろ小さな身体を持つ彼は、それでも男性だと思わせる筋肉量がある。ちょっとでも気を抜けば、年寄りの身体が転がってしまいそうだ。
衝撃を与えないようゆっくりと窓側のベッドへと寝かせた私は、持っていた解熱剤をイリヤの口の中へサッと放り込む。続けて顔を横にし、用意していた水を飲ませれば一安心。
「苦い」
「舌が麻痺していない証拠だよ。疲労だろうから、寝れば治るさ。他に、頭痛や吐き気は?」
「ない。身体がうまく動かないだけ」
「それだけ熱を出していればそうだろう。眠りなさい」
「……アインス」
「はいはい」
他の患者なら、これで治療は終わり。あとは、ここで寝かせて途中経過をちょこちょこ見る程度で事足りる。
しかし、イリヤの場合はあとひとつ、することがある。
私は、薬棚へと向いガラスの引き戸を開けた。少々軋む音が響くから、そろそろ油を垂らさないとな。まあ、それは後でやろう。
今は、この中に入っているクマのぬいぐるみを取り出して……。
「おやすみ、イリヤ」
「ありがと、アインス」
クマのぬいぐるみを渡すと、秒で寝息が聞こえてくる。
見れば、それを抱きかかえ真っ赤な顔をするイリヤが、とても穏やかな顔をして眠っていた。
昔、母親にもらったものらしい。
これがあると寝すぎるとか、そんな理由で医療室に置かれるようになったが……。
「……イリヤは、頑張っているよ」
心が女性というだけで、騎士団を追放されたイリヤ。
でっち上げの理由で、王妃殺害未遂の罪を着せられた私。
似ているんだ。私たちは。
だからこそ放っておけないし、我が子のように可愛がってしまう。
願うなら、そう……。
この子が、後ろ指刺されずに生きられる世界になりますように。
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