「ベル」は家族に愛されていた


 そろそろ、夕陽が沈む時間帯になっていた。

 それは美しいという言葉がよく似合うオレンジ色で、まるで宝石のように輝かしい光をベッドまで届けてくれる。こんな風に夕陽を見たことがなかった私にとって、それは特別な光だった。


 でも、そんな光に浸ってばかりはいられない状況なの。

 実にもったいないわ。ああ、嘆かわしい。


「……話をまとめるわね」

「はい、お嬢様」


 ここまで来るのに、一生分の体力を使った気がする。

 正直な話、机に向かって筆を走らせている方が気は楽だったわ。だって、こんな混乱するような内容のお仕事は振られたことがないんですもの。

 せいぜい、穀物の肥料をどう蒔けば一番効果が出るのかを1から調べたくらい。あの時は1月もかかってしまったけど、今なら朝飯前だわ。

 それほど、私は聡明になった……気がする。


 いまだにベッドの上に居る私は、目の前でニコニコ顔を披露しっぱなしのイリヤからもらった薄手の膝掛けを肩にかけて、深呼吸する。


「私の名前は、ベル・フォンテーヌ」

「左様でございます。そして、私は天才イリヤ」

「そうね、否定はしないわ」

「ふふん」


 そう、結局夢から覚めなかった。……いえ、これが現実だと認めざるを得なかった、と言った方が正しいわね。

 とにかく私は、フォンテーヌ子爵の息女、ベル・フォンテーヌとして生き返った。そして、アリス・グロスターがあの時息を引き取った。それは、確定したわ。じゃないと、今の状況を説明できない。


 さらに、目の前で誇らしげな顔をしているイリヤは、本当に私の……というか、ベルの専属メイドだったらしい。こんな騒がしいメイドが居て良いの? メイドって、主人の近くでそつなくお世話をする人のことを言うんじゃないの? 「そつなく」って言葉、イリヤの辞書に存在してる?

 なんて思っていたけど、先程のお父様たちの話を聞いて考えを改めたわ。性格はアレだけど、彼女は紛れもない天才だったの。


「でもって、私は1年前に自殺した……」

「左様でございますぅ。それから、ずっと眠っておられました。なので、目覚めてすぐお話ができたことに驚いたのです、はい」

「どうして?」


 肩にかけた膝掛けが落ちそうになると、サッとイリヤがかけ直してくれる。骨と皮しかない私の腕は、ただの飾り物ね。

 そりゃあ、1年もの間点滴だけで生き延びていたんだもの。身体の肉も体力もなくて当然だわ。だから、さっき鏡の前に行こうとした時に関節が痛み出したのね。主治医のアインスに言われて納得したわ。

 

「だって、1年もの間一言だってお話されなかったのですよ。うんともすんとも! なのに、すぐ声を出せるなんて。イリヤがびっくりするのも、皇帝陛下が息をするほど普通のことです」

「……皇帝陛下じゃなくだって、人間であれば誰だって息をするんじゃないの?」

「そうとも言います。えへん」

「……ふふ」


 やっぱり、イリヤって面白い。

 

 私は、改めて専属メイドのイリヤの全身を見ながら、目を覚ましてから今までのことを思い出すことにした。

 私が目覚めたのは、そう。今から数時間前、お昼を少し過ぎた時間帯だったわ。



***



 目を覚ますと、やっぱり天井はとてもシンプルな白だった。日の光が眩しいってことは、まだ昼間なのね。

 さっきと違うのは、それに加えてたくさんの顔が私を覗いていたということくらい。


『おおおおおおおお嬢様が起きた! お嬢様がっ! 起きた!』

『本当だわ、貴方! アインスを連れてきてちょうだ……いいわ、私が行く!』

『ベル、おお、ベルよ! もう絶対に目を瞑ってはいけないよ! 私との約束だ、グスッ』

『グスッ、旦那様あ。泣いちゃダメでございますぅ。もらい泣きしてしまいますぅ』


 それじゃあ、私は夜も眠れないじゃないの!

 そしてイリヤ。貴女、旦那様って呼んでる人より先に泣いてたのを見たわよ!


 なんて言いたいのだけど、ここは黙っておこう。言える雰囲気ではない。


 顔を覗いていた人物は、イリヤにお父様、お母様の3人。

 ……あら。どうして、私はこの中年男性と女性をお父様とお母様だと思ったのかしら。ベルとやらの記憶が残っているの? 不思議だわ。


『お嬢様、お身体の様子はどうでございますか?』

『……なんとも。どのくらい、眠っていたの?』

『先程気を失ってから、3時間ほど。その間、イリヤはサンドイッチをひとつまみしました。お腹いっぱい』

『そう、美味しそうね』

『……』

『……』


 私がそう言うと、残った2人は静かになった。

 この2人が静かになると、ロクなことが無いんだから。……もしかして、これもベルの記憶?


 お父様とイリヤが口を閉ざすと同時に、ワナワナと全身を震わせながら顔を真っ赤にさせてしまった。

 私は、それを見ながら上半身を起こす。その動作だけで、息切れが酷い。


『おい、ザンギフ料理長を連れてこい!』

『ザンギフ料理ちょおおおおおおおお!! お嬢様がサンドイッチを「美味しそう」と! 「美味しそう」と!!』

『こんな痩せ細ってしまって可哀想に……! ありとあらゆるものを詰め込んだサンドイッチを100人分用意し『貴方! ベルは、1年も何も食べてないとあれほど!!』』

『うっ……』

『うっ……』


 どうやら、「ありとあらゆるものを詰め込んだサンドイッチ」は食べなくて済みそうね。


 お父様とイリヤが叫ぶと、すぐにお母様とアインスがやってきた。

 鬼の形相とは、お母様のことを言うのかも。私も、怒らせないようにしないと。

 2人も、それを見て萎縮するように身体を小さくしている。


『おはよう、ベルお嬢様。私のことは覚えているかい?』

『おはよう、アインス。ええ、覚えているわ。イリヤも、お父様、お母様も』

『……え、今なんて』

『ベル……!』


 あれ、違ったのかしら。

 私が「お父様」「お母様」と口にすると、その場の雰囲気がガラッと変わってしまった。


 イリヤなんか、大きく目を見開き両手で口を覆って、とても大袈裟なリアクションをしている。顔を引きすぎて二重顎になってるけど、教えてあげた方が良いかしら?


 にしても、憶測で話したらいけなかったわ。失態ね。


『記憶が戻ったのかい?』

『……え?』

『だって、私たちのことを両親だってわかったのだろう?』

『……わからないけど、そう思ったの。間違っていたら、ごめんなさいね』

『……うう、ベルゥ。そうよ、お母さんよ』

『ベル……おお、ベル。私の可愛い娘、可愛い娘』


 ……どうやら、当たっていたらしい。

 フォンテーヌ家の人たちは、リアクションが大袈裟すぎてよくわからない。

 というか、今にでも抱きついてきそう。それだけは遠慮して欲しいわ、骨が折れてしまうもの。


 とりあえず、私がアリスだってことは黙っておいたほうが良さそうね。大騒動になりそうだし、第一私にそれを話す体力もないし、説得する材料もない。


『私、何も覚えていないの。起きたら、ここで眠っていて。……ごめんなさい』

『……良いんだ、良いんだ。辛いことは忘れてしまった方が良い、特に』

『ちょっと、貴方。今は、その話をしないで。……それよりベル、何か欲しいものはない?』

『えっと……』


 欲しいもの? 私が持っているものではなく?


 グロスター家は、いつもみんなを敵と認識してお金を奪い合っているような人たちだった。ちょっと下を向いただけで、「金を隠してるのだろう!」と髪を鷲掴みしてくるような人たちで。

 欲しいものは何か、なんて聞かれたことはないわ。むしろ、「隠しているものを出せ!」って部屋を荒らすような人たちだったから。


 私は、その言葉の意味を知らない。

 欲しいものを聞いてどうするの? 奪うために、与えてくれるってこと?

 私もグロスター家の1人だから、この人たちにも裏の顔があるのかって疑ってしまう。こんな優しい目を向けてくれるのに。


『ゆっくりで良い。私たちに用意できるものなら、なんでも用意しよう。そうだ、最近流行りの猫なんてのはどうだい?』

『体力がない人に何を言っているの! まずは、療養よ。愛玩動物はそれからにしなさい』

『君は硬い。だから、パーティで男が寄ってこんのだ』

『あら、寄ってきた方がよろしくて? 私ってば、魅力的だからそのまま帰ってこないかもしれないわ』

『そ、それは、それは……』

『ふふ……』

『……』

『……』

『……』


 ああ、また来るわ。コレ。


『笑ったぞ! ベルが! 私のベルが!』

『イリヤ、この顔で肖像画を描いてちょうだい!』

『はいいいい、ただいま!』

『え、イリヤって画家も兼ねているの?』

『はわわ、お労しい。お嬢様の記憶がなくなってしまうなんて。この天才イリヤの功績をお忘れになってしまうなんて』


 ほら、絶対はしゃぐと思ったのよ。


 それに、ちょっとだけイリヤを見直したわ。ちょっとだけ、ね。




 どうやら、ベルは家族に愛されて育ったみたい。それだけは、この短時間でもわかった。

 なのに、どうして貴女は自殺なんかしようと思ったの?


 私は、アインスに脈を測ってもらいながら、この身体の持ち主であるベルに問いかける。


 ……当然、返事はない。


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