20.「崩れる日常」

「それでは、ここの問題。わかる人はいますか?」


 懐かしい木の香りと、黒板にぶつかるチョークの音。

 教卓の前に立ち、計算式を書き終えた先生が、振り返って子供達に声をかける。


「はい‼︎」


 一斉に、たくさんの子供達が手をあげる。葵は、すくんで1人、手を挙げられずにいた。


「葵ちゃん……頑張って」


 三澤は、小さな声で呟く。葵は引っ込み思案で、あまり人前に立とうとしないのだ。


「そうねぇ。誰にしようかな」


 先生が、生徒を見渡してから眼鏡の位置を直す。

 勇気を振り絞り、葵がスッと小さく手を挙げる。


「それじゃあ……明石さん」


 その勇気も虚しく、別の生徒の名前が呼ばれた。


(なによ〜〜! 葵ちゃんが頑張って手挙げたのに‼︎)


 という文句は、心の中にしまっておくことにした。親バカである。

 少し涙目になりながら、葵は次のチャンスを窺っている。葵が、チラ、とこちらを見た。目が合う。グッと親指を立てて応援の合図を送ると、恥ずかしそうに目を背ける。


「それじゃあ〜、この問題! 誰かわかる人はいるかしら?」


 チャンスが到来した。思わず、問題も見ずに手をあげてしまう。


「あら、早いわね。辰巳さん、どうぞ」


 真っ先に手を挙げた葵が当てられてしまった。目を細めて黒板をじっと見る。

 ふと、隣の男の子がノートを葵の机にスライドする。


「え、えと、36……です……」


 恥ずかしそうに呟き、涙目になって困惑する。俯いて手をもじもじと動かす。非常に目の保養である。


「よくできました。正解。座っていいわよ」


 バッと勢いよく座り、隣の男の子に何か囁く。見たことのない表情豊かな葵の横顔が覗かせていた。


「あらあら、葵ちゃん……」


 その様子を見ていた三澤は、口が緩むのを抑えられなかった。思わず口を塞ぐ。

 再び、葵がチラ、とこちらを見る。親指を立ててナイス!を送ると、葵も恥ずかしそうにぐっと親指を立てた。


 授業終了のチャイムがなり、生徒たちが一斉に立ち上がる。


「ありがとうございました」


 挨拶を終えると、一目散に三澤のもとに駆け寄ってきた。顔は、いつもの無表情に戻っている。


「はーい、よくできました」


「うむっ」


 頭をそっと撫でてあげると、変な声を出して甘えてくる。全く可愛い子だ。


 パァン。


 大きな音とともに、黒板に液体が弾け飛んだ。先生が倒れる。

 ざわざわと参観者が騒がしくなり、なにかなにかと野次馬が集まってくる。


「え……? 何が起こったの?」


 倒れた先生の体には、顔がなくなっていた。体は膨張を始め、不愉快に蠢いていた。


 ***********************


 土曜日の朝は、とても清々しくて好きだ。人は少なく、空気は澄んでいる。といっても、もう昼時に近いのだが。

 ぐっと背伸びをして、背骨をポキポキと鳴らす。


「あれも葵ちゃんの授業について行けばよかった……暇だ」


 土曜日で特にやることもなく、この後何をしようかと頭を悩ませる。車で行かなければならないほど学校が遠いので、簡単に友達とも会えないのだ。車があれば都会まで1時間で着くのに…。

 何もない山の中。高校生にもなって山で暇は潰せない。

 突然、プルプルと携帯が震えだす。三澤からだ。


「どうした?」


「真紘くん! 大変なの! 突然先生の顔が……とにかく、学校に来て! 真骸があば」


 そこで電話が途切れた。どうやら、真骸が暴れているらしい。

 走り出していた。考えるより早く、体が動いた。

 ーー三澤、葵ちゃん、どうか無事でいてくれ。

 そう願うばかりであった。


 山から道に続く階段を降りると、右からバイクを蒸す音が轟く。


「真紘くん! 乗って! 早く!」


 艶のある声は叫んでもやはり魅力がある。振り向くと、ヘルメットに顔を包み、バイクに跨った緋石綺羅がいた。


「綺羅さん!」


「説明はあと! 今は、急いで学校に向かわなきゃいけないの!」


 バイクに跨り、渡されたヘルメットをかぶる。

 大きな衝撃とともに、バイクが走り出した。思わず落ちそうになり、必死に綺羅の体にしがみつく。


「只事じゃないわ。今回の敵はやばい。あなたの力が必要よ」


「それほど強いんですか?」


「真骸が強いってだけじゃないの……おそらく、敵対勢力の人間が一緒にいるわ。狙いはおそらく、葵ちゃんと明石真羅くんの拉致、そして三澤さんの殺害」


「明石真羅……?」


 聞いたことのない名前だ。葵の友達か?強い不安が心に渦巻く。


「ということは……人類根絶派か!」


「おそらくそう。最近、真骸の発生があまりに多すぎる。そしてこの間のデパートの事件。ここ最近の真骸の事件は、全て人為的に起こされたものよ。私たちの考えでは、真羅くんの最強格の体を媒体に葵ちゃんの潜在的な大きすぎるエネルギーを注入して、制御可能な最強格の真骸を作り出す気よ」


「最強格の体⁉︎」


「言ってなかったけど、明石真羅……あの子は、漆くんと同じ混骸変異個体よ」


 500年に一度しかいない変異個体は、この時代に2人もいたのだ。衝撃の事実に、声も出ない。


「真羅くんは、身体中の筋肉に対骸膜があるの。身体中に吸収したエネルギーを分散させて、本来の力を発揮すれば普通の人間の13倍の力を解放できる」


「そんな子が……」


「しっかり掴まって! 学校はもうすぐよ!」


 急カーブを曲がり切ると、そこには破壊し尽くされて跡形も無くなった学校と、街まで避難している子供達とその親がいた。


「真紘くん! 綺羅さん!」


 子供達の列から、三澤が走ってこちらにやってくる。


「三澤!葵ちゃんは……⁉︎」


「まだ、中に……! 他にも、何人か生徒が中にいるままなの!」


「そんな……あの中に⁉︎」


「おそらく、予想は正しかったってことね」


 綺羅は呟くと、胸ポケットから携帯を取り出して耳に当てた。


「えぇ……。あなたの予想通り。羽咲里小学校よ。Sを手配して。この現場が最優先よ!相手はAの上位はある」


 怒った様子で電話を切ると、一度気持ちを落ち着かせ、息を吐いて真紘達を見る。


「今から、うちでトップレベルの対真骸士がくる。それまで、なんとか持ち堪えられるかしら。中の子供たちの救助を。私は、この事件の犯人を探すわ」


「どれくらいできますか……?」


「別の現場からここに向かうから……少なく見積もって1時間。いける?」


「……やってみせます」


 綺羅は強く頷くと、アクセル全開でバイクをUターンさせる。


「葵ちゃん、まってろ……絶対、助けてやるからな。」


 決意を固めて、2人は校舎の入り口へと足を踏み入れる。

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