9月26日


水曜日。晴れ。


 今日はしばらくぶりに寒さがキツくなかった。でも、変な夢を見たせいで起きたときは悪寒がひどかった。よりによってが揃いのレオタードでデュエットと洒落込んでいたのだ。あいつは髪を凝った編み込みのシニヨンにして、みどりはトレードマークの痛々しいくらいに清潔なベリーショートをジェルで固めていた。二人とも鎖骨と肩甲骨がうらやましいほどクッキリしていた。リハーサル風景らしいが、きっと以前教室で先生方が披露された模範演技が脳内で再現されたのだろう。だけど、二人の顔を載せた手足が端麗なアラベスクを見せつけてきたので、あたしは悔しさに唇を噛み、座っていた席から熟れ過ぎたグズグズのトマトを立て続けに思い切り投げつけてやった。でも、ステージにはアクリル板があって、みんなそこにぶつかって炸裂してしまった。飛び散った果汁は赤くなかった。粘りけのある、くすんだ青い液体になってドロッとしたたり落ちた。しかし、あたしを小馬鹿にしているのか、意に介さぬていで平然と踊り続ける二人は時々くすぐるように互いの首に歯を立て合っていた。小枝みたいに触れたらポキッと折れてしまいそうなみどりと対照的に、あいつの肢体は細いがギスギスしていず、成熟のときを迎える手前の果実を思わせる豊潤な色香に満ちていた。癪だった。


 あたしはまた夜中、こっそりA棟にお邪魔した。足もとを照らすほのかな明かりを頼りに姿見に向かって一人でレッスン。曲を流せないのが残念。ヘッドフォンは動くのに邪魔だし。何か、こう……プレーヤーとケーブルで繋がなくていいコードレス(?)っていうのか、イヤホンのの部分……イヤーピースだっけ、あれをつけるだけで音を受信できるみたいな、そういうものはまだないのかな。うーん。

 といった仕儀で、耳の中で音楽が鳴っているつもりで体を動かす。『ラ・バヤデール』~「影の王国」、精霊たちの踊り。阿片がもたらした幻覚に登場する群舞。その一翼を担う気持ちで。

 踊ることを突き抜けて、物語の世界へ分け入る感覚。もっと高く、同時に深く。この高揚感に比べたら現実の秩序にどんな意味があるものか。

 ご機嫌でメロディをハミングしていたあたしは不意にゾッと寒気を覚えてパドブレの途中で動きを止めた。鏡の隅で(多分)シルクのナイトガウンを羽織って髪をほどいたあいつが螺旋階段の手すりに指を添えていた。ガウンはサックスブルー。青いピグメントを浴槽で溶かした中に浸して鉱毒で染めた風な……。

 恐怖に縮み上がりながら振り返らずにいられなかった。あいつは半醒半睡のトロンとした状態から徐々に正気を取り戻していくかのようで、何ゆえ我が夢の女皇国におまえが立ち入ったのだ――とでも言いたげな目つきになった。同時に、その眼光に射すくめられたあたしの中で怒りに似た感情が弾けた。発作的に階段を駆け上がって、あいつに掴みかかろうとした。が、軽くかわされ、あたしはバランスを崩して転げかかり、危うく支柱を握って事なきを得た。あいつは数段上からあたしを見下ろし、瞳に蔑みの色を浮かべて口の端をニッと吊り上げた。伸ばした腕が痺れていたし、それ以上にひねってしまった足首が痛かった。あいつは芝居っ気たっぷりに充分な間を取って、

「欲しいの?」

 青く妖美に光る羽織り物を滑らかに脱ぎ捨て、放り投げた。不本意にも平伏してありがたく拝領する格好になってしまった。あいつの体温をほんのり保ったガウンは甘い香りがした。風呂上がりのボディミルクかもしれない。いかにも高級そうな。

「フフン」

 あいつは鼻で笑ってを返した。そもそも何をしに出てきたのか。どうでもいいことだが。あたしは巡礼者よろしく被衣で顔を隠して拝跪したまま、あいつの贅沢な移り香にむかつきを覚えながら酔い痴れていた。そこへ神経質な靴音が割って入った。あたしは足の痛みに顔を歪めつつ、急いで階段下の空間にもぐり込んだ。まるでハロウィンにおばけの仮装で誰かを待ち伏せしている子供のように。いや、おどかしてはいかん。気配を絶たねば。身を縮める寸前、掌が床の把手に触れた。上げ蓋がある。その下に隠れるのはどうだろう。しかし、そんな暇はなかった。コツコツ、コツコツ……物憂げなローヒール。上下する懐中電灯の光がと一点を照らして止まった。沈黙。ややあって探しものを諦めた調子の、せつなげな吐息を漏らすと、回れ右をして出ていった。ふと、その人はあいつと逢引きするはずだったのに期待を裏切られたのではないかという気がした。

 それにしても、鏡に映るということは、あいつはまだ完璧な人外ではないのだろうか?


【メモ】

 ①被衣(かつぎ):本来は「かづき」といい、女子が外出の際、頭にかづく=かぶる衣服のこと。

 ②拝跪(はいき):ひざまずいて拝むこと。

 ③人外(にんがい):人としての正しい道に外れること。また、その人。ひとでなし。

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