9月24日


 月曜日。晴れ。


 振替休日につき授業なし。ひねもすのたりのたりかな(春ではないが)。


 スイーツ倶楽部にリーフティの缶を寄付した。パーカーワンピースの上にエプロンを着けた加納さんは、ここにはティーポットがないからを使おうと言い、喜んで受け取ってくれた。

「今日は仲間がいないんで一人で食べるつもりだったんだけど、お招きしないわけにいかないわね。どうぞ」

 加納さんは昨夜遅くこっそり仕込んでおいたというバットを冷蔵庫から出した。スライスされたバゲットがアパレイユをたっぷり吸って――どこか卑猥な印象を与えるほど――ふやけていた。フライパンを熱し、バターを溶かしてフレンチトーストを焼く。あたしはお湯を沸かして紅茶を淹れた。

「杏のフレーバーなんだね」

「うん。ところで、これフランス語ではなんて言うの?」

「パンペルデュ。失われたパンって意味。時間が経ちすぎてダメになったから命を吹き込んで生き返らせてやるって発想みたい」

「ふうん」

 お菓子作りの上達のためには数をこなしてテクニックを磨くだけじゃなく、そうした背景の勉強も大切なのかもしれない。

「おいしい!」

 表面はカリッと香ばしく焼けて中はふんわりした、絶妙な柔らかさと歯ざわりをあわせ持った理想的なフレンチトーストに、あたしは心底ウットリした。加納さんはにんまり笑って、

「確かにだわ」

「どういう意味?」

「厨房の余り物をちょうだいしてるから。これに限った話じゃなくてね。調理部に親戚がいるの」

「それで材料が豊富なんだ、スイーツ倶楽部は」

「他のサークルに知られたら、ね」

 彼女は鼻歌混じりに食器棚の一角を占めるリキュール類からアプリコットブランデーのボトルを出し、あたしに訊ねもせずマグカップに滴らせてスプーンでかき混ぜた。紅茶に備わったフルーツのフレーバーをグッと濃縮したような、甘さと鋭さを兼ね備えた芳香が立ち昇った。それは小粋なグラスではなかったけれど、幻のカクテルのイメージが脳裏に浮かんだ。

「パティシエールを目指すのもいいけど、こうしているとバーテンダーになってオリジナルのレシピを考案するなんていうのも悪くないかなって思う」

「加納さんだったら何でもできそう。頭もいいし、器用だし。それよりあたしになっちゃったよ、どうしよう」

「アハハ。酔った?」

「うーん、まだ、みたい……」

「あたくしは、いい感じにまいりました」

 加納さんはあたしの頬を両手ではさむや、微かに開いた唇を重ねてきた。卵とバターと紅茶と洋酒の匂いが鼻孔に充満した。彼女はあたしの反応を待っていたらしかったが、何もできずに固まっているうちに諦めたのか軽い溜め息と共に体を離して、

「高砂さん、好きな人いる?」

 サツキさんの話をしようかしまいか迷っていると、

「もしかして、?」

 あたしにとって憎悪の対象でしかないの名が飛び出した瞬間、頭の芯がキンと冷え、一切の香りを感じなくなった。とっさに返事ができなくて無様にかぶりを振った。

「違うの?」

 今度はブンブン頭を上下。

「あの人は高嶺の花というか、あたくしたちとはが違いますものね。いや、ごめん、いつも気にかけてるっぽかったから、ちょっと言ってみただけ」

 あたしはあいつと接近遭遇したり何かのはずみに思い出したりするたびに不快感で顔を歪めているつもりだったが、他人の瞳にはむしろ逆に映っていたのか……と、少し驚いた。冷めてきた紅茶を含むと、アルコールは、もはや気の利いたアクセントではなく悪目立ちする異臭と化していた。

「彼女には怖い噂があるでしょう」

「え?」

 食器を片づけ始めた加納さんが怪訝な顔をした。

「お父さまが役員だから揉み消し工作も得意だとかで……何やらいろいろ。よくわからない名目でクビになった先生がいたり、亡くなられた方もいらしたりして。あと、二年生のが他の寮生の私物を盗んだって話を聞いたけど本当かしらね。その子、彼女との間にトラブルがあったっていうじゃない?」

「草壁さんの差し金で教員が辞職に追い込まれたり死んだり、下級生に窃盗の嫌疑がかかったりしてるって?」

「さあ。本当のところはどうかな。また聞きのまた聞きレベルだから。でも、他の子同士のいざこざの仲裁に入ったら一方に極端な謝罪を要求して、その子は土下座させられた挙げ句、心身の不調を訴えて退寮。別件じゃあ自分の手を汚さずにリンチを主導したかと思えば、同室の一年生と特別な関係っていうのは公然の秘密でしょ」

「ほう」

「うかつに口に出せない、もっと恐ろしい話もある。そもそもこの学校自体が、他人を操ったり屈服させたりっていう彼女のを開花させるための実験場として作られたとか……」

 加納さんはあたしのマグカップが空になったのを見て、そっと取り上げ、それも洗って、

「仄聞ですが、高砂さんが夜中に一人で踊ってて不気味って目撃談があるやらないやら」

「……」

「伝言ゲームが不正確なのは致しかたないですが、悪意を込めて尾鰭をつけるのはよくないよね」

 確証のない情報を拡散するのは考えものだと言いたいのだろう。良識派だ。でも、ここでステップを披露したら、あたしについてだけじゃなく、あいつにまつわる悪評も信じてくれるだろうか。全部ひっくるめて事実として。

 しかし、調理室には手足を伸ばして妙技を披露できるだけのスペースもなければ、あたしはあたしで情けないことに、お腹がいっぱいで体が重く、とてもしなやかな動作を繰り出せる状態ではなかった。


【メモ】

  仄聞(そくぶん):人づてなどによって薄々聞くこと。少し耳に入ること。

【引用】

 いつも本当のことを話す習慣のある人間は、他人の言葉に嘘をかぎつけようとはしないものだ。(ルース・レンデル「分身」)

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