9月18日


 火曜日。晴れ。


 サツキさんとの得がたい体験を思い返していたら体の芯がうずくような鈍い痛みを覚えた。が、要するに生理が始まってしまったのだ。特に早くも遅くもなし。健康か。

 とはいえ、あたしの精神は健全でないという自覚がある。昨夜は鏡を壊したときの記憶が再生された夢を見て飛び起きた。で、安眠中の同居人たちを起こさないように忍び足で廊下に出た。バレエシューズ型の室内履きで猫のようにひっそりと。パ・ドゥ・シャ。

 あれは半年ほど前。高等部で不定期に開催されるサロンにようやくお邪魔できたとき(人数制限があるから、いつも抽選)。刀根先輩がA棟のミーティングルーム――B棟にはそんな気の利いたスペースはない――でメイクアップ指導をなさるのだけど、不快なことにも顔を出していた。きっと特権を行使して毎回もぐり込んでいるんだろう。になった刀根先輩のご友人がお化粧を落として戻ると、お茶の時間になった。「美しいものとは何ぞや」との問いかけに宝石という答え。深みのある硬質な光を放ち、見ていると吸い込まれそうになるから……と。それで、列席者は次々に思いつきを口にしていった。すると、あいつ――徒名草は――こう言った。

「鏡も冷たくて魅惑的でしょう。美艶」

 みなさんはなるほどと呟き、感嘆の吐息。のあいつは例によって髪を後ろへ軽く払い、小首を傾げてあたしに視線を向けた。形の整った目をわざと邪悪な三日月型に歪めて。要するに、鏡は不美人を映した瞬間、一転してきれいじゃなくなるという皮肉だ。誰も余計なことは言わなかった。けれど、あたしを横目で見ている気がした。微かに冷笑した人もいたかもしれない。

 その晩あたしは眠れなかった。悶々と輾転反側しつつ、をどこで見かけたか思い出そうとした。そう、理科の時間。鉱物の断面がどうとか……つまり、準備室に保管されているのだ。朝が来て授業があって放課後になって……ようやく周りの目を盗んで忍び込み、金槌(正確にはクラックハンマー)を持ち出した。そして、また夜。ちなみに、敷地の境界に警備員の詰め所があって侵入者をブロックしているから、寄宿舎の玄関は基本的に無施錠だけれど、各部屋ごとに鍵を掛けて眠るので寮生も特に不安がってはいない。あたしは悠々とA棟エントランスホールに設置された姿見の前へ向かい、百合の意匠のレリーフが施されたフレームに縁どられた大鏡を正面から見据えた。確かに、あいつが放った美しく艶めかしいという表現はあたしに似合っていなかった。そこにはフットライトで死霊のように浮かび上がった顔色の悪い小娘が棒立ちになっていた。あたしはホラー映画よろしく頭頂からビッと皮膚が裂けて、この貧しい着ぐるみに閉じ込められた本当の自分が孵化すればいいと念じた。しかし、たっぷり二分ほど待っても何も起きなかったので、あいつの言う人をひきつけてやまない代物に向かってハンマーを振り下ろし、重傷を負わせてやった。

 器物損壊が発覚し、全校生徒が講堂に召集された。犯人は職員室に出頭せよ、と。あたしは何食わぬ素振りを貫いた。後から聞いた話では、この事件がきっかけで防犯カメラが増設されたとか。そして、あたしが破砕したものの代わりに新しい鏡が取りつけられたという。

 半年ぶりに犯行現場へ戻った。今度のミラーは前より一回り大きかった。サテンのパジャマで気が済むまでピルエットを披露し、軽く息を弾ませて広角レンズを見上げ、下腹部痛と滴る血の気配を感じながら満面の笑みで高々とピースサインを掲げてやった。顔の造作はともかく、今のあたしの挙措は間違いなくエレガントだったはず。

 気が済んでB棟へ戻りながら考えたのは、18歳までここで暮らすという選択が正しかったかどうかだった。ママが事業に失敗したパパを見限ったと思ったら次の男を連れ込んで、しかもそいつがあたしにまで手を出そうとしてきたので無我夢中で突き飛ばしたら階段から転げ落ちて、命に別状はなかったが結構なケガをして……でも、経緯を話したら捕まっちゃうから口をつぐんだのよね、ヤツは。酔って足を滑らせただけだ、と。それでも察しのいいおばあちゃまは血相を変え、つてを頼ってあたしをこの学校に避難させた。あたしもママやの顔なんか見たくなかったからホッとした。だけど、サツキさんと遠く離れてしまったことやバレエのレッスンを受けられなくなったことを後悔しているのは事実だ。


【メモ】

 徒名草(あだなぐさ):桜の別称。

【引用】

 女の子というものは、この世に生きているうちは芋虫なのよ。そうしてね、夏がくるとそれが蝶になるのよ。それまでは、それぞれみんなおたがいに性向と必然性と形をもった幼虫なのよ。(レ・ファニュ『吸血鬼カーミラ』)

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