9月17日


 月曜日。晴れ。新月。


 結局、例の手紙は今までのものと一緒にバスケットトランクにしまった。中には大切な器が一つ、ひそやかに起立している。掌に収まるサイズの香水壜。でも、入っているのは液体じゃない。サツキさんが使う画材をほんの少し分けてもらったのだ。入寮したての頃、寒くないか、差し入れを送ろうかと書いてきてくれたから、あたしは何よりここの図書館にない本を読みたいと言っておねだりするついでに、前にサツキさんのアトリエで見た顔料の一つを所望したのだった。

 サツキさんは小さな家に住んでいて、二階をアトリエと寝室に使って暮らしていた。玄関の雰囲気では家族がいるみたいだったけれど、たった一度あたしが訪ねた日はまるで気配がなかった(みんな出払っていたから呼んでくれたのかも)。アトリエには白木の棚があって、日本画のための色彩が一つずつシリンダーボトルに収まり、グラデーションを描いて整列していた。サツキさんは日本の伝統色についていろいろ教えてくれた。その後……神聖な場所で淫らな行為に及ぶのはいかがなものかと思いはしたが、神殿の主が所望されたのだから黙って従うべきだと考え直し、扉もカーテンも開け放ったベランダ越しに正面の緑が風に揺らめく様を朦朧と眺めながら、あたしはサツキさんに身を委ねた。

 そのとき意識が途切れる寸前に木々の隙間から覗いた空の色が欲しいと伝えたら、サツキさんは茶目っ気たっぷりに〈取扱厳重注意〉と印刷したラベルを貼った小箱に入れ、あたしが焦がれて夢にまで見た魅惑の青いピグメントをおすそ分けしてくれた。見つめるとその情景が蘇って胸が高鳴る、ややスモーキーなブルーの粉末。これがもし大量に手に入ったら、一人きりで――いつか泊まったホテルの浴室にあったような――猫脚のバスタブにゆったり浸れるなら、どんなに素敵だろう。きっと、あたしの肌も同じ色に染まる。そして、鉱物の痺れるような毒を吸ってこごり、静かに死を迎えるに違いない。そうしたら、今度こそサツキさんはあたしを正面から描いてくれるだろうか。彼女を想って青褪めた、あたしの冷たい屍体を……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る