9月5日


 水曜日。曇り。


 今日の音楽の時間はバロックの概説で、先生のお好みのレコードを鑑賞した。印象に残ったのはクープラン。高潔で、どこかナルシスティックな小品「ゆりの花ひらく」に特に心ひかれた。月光を浴びてひっそり咲く百合のイメージがまぶたに浮かんだ。『ピクニック・アット・ハンギングロック』に出てくる女生徒たちのように、白いモスリンのワンピースを着て黒タイツを履いたあたしがのために一輪をそっと手折って(ハサミが要るかしら?)。夜露が真珠のように輝く花弁から馥郁たる香がこぼれ落ちる。それが消えないうちに早く渡さなければ……などと夢想していたが、無情に断ち切られた。

 授業が終わり、掃除のために人が出入りしだしたと思ったら、がやって来て無造作にピアノを弾き始めたのだ。先生のお許しは得ている、済んだら鍵をお返しするから、ご心配なく、などと言って。あいつはジャズ風のアレンジで――それはそれは軽快なスウィングでもって――「ゆりの花ひらく」を華麗に演奏した。名前に入っているのはの字なんだから「さくらさくら」でも弾けばいいのに。聴衆の中の誰かが「さっき先生がおっしゃっていたイネガルよ」と傍の人に耳打ちしていた。「さすがね」「素敵だわ」といった讃辞がそこかしこで溜め息混じりに漏れた。あいつは最後の指が鍵盤から離れた後、しばし首をのけぞらせるように心持ち顎を上げて傲岸な視線を周囲に放った。椅子から立つと、礼ではなく小首を傾げて挨拶し、あたしの横を通り過ぎざまストレートの長い髪を肩の後ろへさばいた。まるで女吸血鬼が黒いマントの前を払ったかのようだった。

 歩きながら頬にむず痒さを覚えたので、一番近くの鏡の前へ駆け寄った。校舎には階段の踊り場に鏡が設置されている。常に身だしなみに気をつけよという意味だろう。それらは大きさはまちまちなのだが、いずれも楕円形で、フレームは植物の蔓や葉のうねりをデザインしたアールヌーヴォー調。いつ見ても、これといった特徴のない、ありきたりな顔だ。頬に細い髪が一本、貼りついていた。愚弄された気分になって夢中でこすり落とした。ジタバタしていたら通りかかった二、三人に不審げな目を向けられて我に返った。ふと、感染呪術という語がひらめき、たった一筋でもあいつの髪の毛を手に入れて利用できれば……と思い立ったが、もうどこかへ飛んでいってしまった。


【メモ】

 inégales:バロック期に行われていたリズムの処理法で「不均等に」の意。曲に表情を与えるために用いられた。8分音符が3連符のような揺れを伴う点はジャズのスウィングの感覚と共通する。

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