五日間の天国と
「知ってるの? 古い映画だから、同級生で知ってる人誰もいないのに。うちのお母さんが好きなんだけど――」
同級生という言葉に反応して、ぱちんとその子はまつげを伏せた。
長いわけでも多いわけでもないが、綺麗な上向きのまつげで、完璧だ、これはもう完璧だと紋子は胸を熱くさせた。
なんて美しい存在。
「あ、あの。一年生?」
「ええ。敬語のほうがいい?」
「えっと」
べつに部活の先輩後輩という間柄でもない。
「いいと思うよ! そのままで!」
彼は、にこりとも笑わなかった。愛想笑いというモノが身についていない人のようだった。どんなに頑固な人間でも、中学生くらいになれば、愛想笑いの一つや二つ、仕方なく浮かべるものだ。そんな必要もまったくなかったのかもしれない。
「掃除当番、そこなの?」
「え、うん」
「ぼくは一階の廊下」
「ぼく」と、言った。
紋子は期待をこめて急き込むように尋ねた。
「わたし、明石紋子。あなたは?」
「水沢フリル。へんななまえでしょう」
「そんなことない! 素敵」
似合いすぎていて、しびれた。これ以上ぴったりの名はないと紋子は一生懸命、伝えた。
「わたしなんてめちゃくちゃ平凡で! もっとアニメのヒロインみたいな名前がよかったなぁ。だから、友達にはモンちゃんって呼んでもらってるんだ。『紋』の漢字がね、紋白蝶のモンと同じで……」
「どうして? ぼくも紋白蝶は好きだけど、本名で呼ぶ方がぜったい素敵。『あきこ』って、いいなまえ」
優しい鼻濁音で、名を呼ばれる。
そのとたん、目に薄い涙の膜が張った。
泣きそうだった。
そんなこと言われたのは初めてだ。
「ぼくは、あきこって呼ぶよ」
フリルの言葉、鼻の頭がくすぐったい。
コンプレックスが瞬く間に強さに変わる。たった一人が評価するだけで。心から言っているかもわからないのに。
掃除当番は一週間続く。
天国のような五日間になった。
次の日の放課後、縦ほうきを持ちながらいそいそと掃除を終わらせる。ゴミ箱を焼却炉へと運ぶ途中、紋子はフリルの姿を目で探した。
フリルはゴミ箱を抱えて保健室に入っていった。なんで保健室?
「水沢くん」
「やあ」
ゴミを焼却炉に捨てに行くことを知らなかったフリルは、収集したゴミを保健室のゴミ箱にこっそり入れていたと言う。その保健室のゴミが八分目まで溜まっていたので、紋子は焼却炉を案内する。
日差しが中庭の草木にやわらかく注いでいた。
たいそう美しい肌を持つ水沢フリル。太陽光に照らされると、その光の筋がそのままシミになってしまうのではないかと紋子が危惧するほどだった。
肌だけでなく顔の造作も、神のみわざ。
その頬に、うっかり触ってしまわぬよう気をつけながら、紋子はフリルと様々な話をした。
古い映画や音楽のこと、古い小説のこと、古いマンガのこと。ふたりは新しいものはあまり惹かれなかったので、素晴らしい情報交換相手になった。古いものを愛する部分は共通していたが、好きな作品はあまり被っていなかったので、互いのオススメに出会えることは刺激的であった。
放課後、ふたりは3号館一階の図書室、日影の閲覧机で、図書室のお気に入りの本をそれぞれ紹介しあった。その晩、フリルのおすすめの本をうっかり徹夜で読みそうになり、己をたしなめる。フリルもまた、紋子の好きな本をいまごろ読んでいるのだと思うと、布団の上をごろごろと転がりたい思いだった。
金曜日。掃除当番のさいごの日。
フリルとこれからも連絡を取りたい。理由がなくても会いたい。
紋子は、フリルと本の話をしながら、制服のワンピーススカートに備わったポケットからスマートフォンに触れた。しかし、結局取り出すことはなかった。
こんなものはフリルの気高さ、高貴さの前には、枯れて崩れるような気がした。そんな陳腐で興ざめなこと、わざわざすることがどうしてできよう。
「あきこ、たのしかったよ。じゃあね」
「あぁ、うん……わたしも」
フリルは紋子の傍をすりぬけて、行こうとする。
「待って!」
考えるよりも早く、紋子はフリルの背中に声を掛けていた。
「ね、このあと暇? 帰るだけなら、どっか寄っていかない? 喫茶店……とか」
つとめてあかるく、提案した。声が震えている。
紋子はフリルに夢中で、一分一秒でも多く時間を共有したかった。
しかし彼は氷の結晶のように繊細な顔で、ほんの微かに、首を横に振る。
「今日ぼくは、彼女と約束あって」
「あ、そっかそっか……」
紋子は笑顔で見送り、スカートを握りしめる。
フリルとこれほど話が合う人、気持ちを共有できる人、この学校にはわたしの他にいやしないのに。いいや、この街でだって、どうかな?
もう懲りたはずなのに、何度でも、何度だって、同じことを繰り返してしまう。
紋子は100回目の恋と、失恋をした。
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