『シェルブールの雨傘』

 紋子、高校二年生の春。

 校舎の空気は湿気ていた。掃除当番の紋子は、特別教室棟である3号館の西階段を四階から一階まで、順々に縦ほうきで掃いているところだった。

ひとりである。

「うう、誰も見てない……やる気ゼロ……」

 独り言もむなしく響く。

 さぼってもいいのではないか?

 本当はペアを組む当番の子がいるのだが、「今日デートだからモンちゃんお願い! これあげる!」と紅茶のペットボトルを紋子の手に握らせ、さっさと先に帰ってしまった。お駄賃代わりの飲み物は、売店で慌てて買ってきたらしい。紋子の好きな甘いミルクティだ。

 ほうきの手を止めて、踊り場の壁にもたれかかる。

 はぁ……

 紅茶を一口二口と飲み、長いため息を吐く。

 すっかり散り終わって新しい葉のついた桜を、窓から見下ろす。せっかくの新緑の芽も、空が厚い雲で覆われていて色が薄まって見えた。

 この千里高校は、もうすぐ創立八〇周年を迎える。

美術、音楽、地学や図書室、柔道場などを収容した3号館の歴史は、昭和40年から始まった。改修工事されているものの、古い。いくら掃除したところで床の黒ずみは取れないし、雨漏りは多いし、ごみを集めても綺麗になった気がしない。

 なんだろう、この感覚。庭に穴を掘って、掘り返した土で再び穴を埋めていくような虚無感……

 部屋を片付けられない紋子は、よく母親に小言を言われていた。掃除しなさい。部屋は綺麗にしておくものよ。ハウスダストのアレルギーになったらどうするの? あとで困るのは自分なのよ?

 掃除してもしなくても日々部屋は汚れていく。ならば放っておいてもいいじゃないか。生きているかぎり、なにもかもが片付くことはないって夏目漱石も言ってるし……と返すと、余計に怒られた。

 少しくらい散らかっている方が落ち着くのだ。

 辺見くんと世界最短記録で別れてから早、一年弱経っていた。むしろ元彼にカウントしないほうがいいくらいの短さなのだ。ノーカウント、なかったことに、ってやつだ。

 あれから懲りたのか恋の脳も冷凍睡眠しているのか、誰のことも好きになっていない。風の噂で辺見くんのお付き合いが継続中らしいことを聞くだけだ。相手が他校の生徒だから、『三日以内に別れる』ジンクスも効果が及ばないらしい。

 しずかな校舎に、とたんに雨粒の音が響き始めた。

 紋子は窓の傍に立った。こぼれ落ちそうだった厚い雲が、水の粒となっていっせいに地上に舞い降りていた。紋子は、ふうっと一息ついて、目もとを晴れ晴れとさせた。曇りよりも断然、雨のほうが好きだった。

海の中にいるみたい。

 イルカは身体から超音波を発して、透視するかのように相手を感じ取ることができるという。

 紋子は雨音に包まれて、悠々と泳ぐイルカになった気分だった。

「アァァ~~~」

 紋子は気分良く、誰もいない階段の踊り場で、歌いはじめた。箒の長い柄を両手に持ち、くるりと一回転した。

 靴裏がきゅっと鳴る。

「ジュヌヴィエーヴだね」

「え」

 突然に、下から声をかけられて足を止めた。

 2階の回廊、窓が半分ほど開かれて、その傍に誰かを待つように佇んでこちらを見上げる一人の少年がいた。

 とても小柄な子だ。強い意志を感じさせる、茶色の瞳が、まっすぐに紋子を見ていた。

 地毛なのか綺麗なベージュの髪を、ふわっと柔らかく後ろで結んでいた。

彼は紋子よりひとまわり小さいサイズのブレザーを着ていた。紺のブレザー、ネクタイ、チェックのスラックス。みんなと同じデザインのはずなのに、彼が着ると際だっておしゃれに見える。

 フランス映画から飛び出してきたように、かわいかった。

 瞳の輝き、まつげの長さ、丸みを帯びた身体の線、肌のきめ細やかさは、男の子には見えない。けれど、男子制服着てるし……男の子だよね。

「カトリーヌ・ドヌーブは、ほんとうにかわいい」

 彼が口を開く。

その声は、音楽のようだった。

 女の子にしては低く、男の子にしては高い。すこしだけ掠れている。季節風邪のような声。

 

 ジュヌヴィエーヴとは、映画『シェルブールの雨傘』でカトリーヌ・ドヌーブが演じた役名だ。

フランスの有名なミュージカル映画である。

 母親のお気に入りでDVDを持っていて、一緒に見たことがある。物憂げで美しいメインテーマ曲、おしゃれな色彩の港町。そして人生の哀愁ただようラストシーンは、小六だった紋子も痺れさせた。

 ヒロインの名前。傘屋さんの娘。

雨が降りしきるさまを見て、紋子はおもわずそのメインテーマを歌っていたのだ。

 あの映画をわかってくれる人がいるなんて。

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